毎日(ではありませんが、)散歩のときにロザリオのお祈りを唱えています。ロザリオは聖母マリアの取り継ぎによって、救いと平和の恵みを求める祈りです。ラテン語ではロザリウム(バラの冠という意味)です。マリア様が「私が死んだ後も煉獄にいる人のために祈っています」
幸せとはなにか

「金持ち父さんと貧乏父さん」の話があります。
私は、どちらでもないですが
「これって、きもちのもちかたじゃないかな」
と、思うようになりました。
(貧乏人の自己防衛本能かもしれませんが)
幸せを考えてみても
結論が出ないですよね?
(今が幸せなのか、何が幸せなのか)
しあわせって、そのときそのときで
かわっていくものだと思います
しあわせは最期に実感するもの
私の幸せは
私の人生の最後に実感するのだと思います
即死することもあるかもしれないですが
即死するちょっと前の気持ちが
人生に対する評価かもしれません
(それは、いつ死ぬかわからない今の気持ちでもあります)
Good Luck,Bad luck,who knows
Only TIME will tell.
(幸運、不幸、だれがきめられるだろうか
時間だけが、知っている)
ということわざをご存じでしょうか?
もとは中国のことわざらしく
こういうとわかると思いますが
日本語では、なんと
人間万事塞翁が馬
(にんげんばんじさいおうがうま)といいます
東洋でも西洋でも
最期(最後)の瞬間に
幸せに気づくものだと
意見が一致していますね
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)とは、人生における幸不幸は予測しがたいということ。しあわせが不幸に、不幸がしあわせにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。単に「塞翁が馬」ともいう。人間は「じんかん」とも読み、「人類」ではなく「世間」を意味する。
故事ことわざ辞典「人間万事塞翁が馬」より
神様にとっての時間
ところで、この「神様の時間」ですが
いま欲しいと思っても、いまもらえることもなく
いま、こうなってほしいと願っても
何十年もたってかなえられたりします
なぜでしょうか
私の中学生時代、
地理の先生がニコニコしながら
授業の初めにこんな質問をされました
「みんな、ハワイ旅行いけたらうれしいよな!」
そうかそうか
なに、まだいったことない?
それなら、よかった
なぜかはこれから説明するから……
その説明によると
ハワイは1年で10cmずつ日本へ近づいているから
そのうち歩いてハワイ旅行へ行けるようになる
のだそうです
(何万年もあとだったと記憶しています)
「だから、よろこべ」
といわれていました
神様の時間を待つ
神様の時間が満ちるまで
どのように待てばいいのでしょうか
自分のことばかり考えているとつらくなるので
他人の幸せを願ってみるのもいいと思います
このときにロザリオは1つのツールになります
どうしてかというと
無心になれるから
仏教でいうなら念仏のようなものかもしれませんね?
カトリックとロザリオ
教会でみんながロザリオを唱えているわけではないです
ロザリオはキリスト教会のなかでも
宗派によっては重要視されていない場合かあります
※宗派という言い方でいいのでしょうか、仏教的な言い方なのかもしれませんが
仏教の宗派によっては念仏を
唱えたり、唱えなかったりするとの似ています
教会の場合には歴史的な背景もあるので
すこしだけ解説しておきます
キリスト教会の宗派
キリス教会には
西方教会と東方教会があります
西方教会はローマで
東方教会はコンスタンチノープルと
世界史で習ったと思います
カトリックとプロテスタントは
西方教会になります
プロテスタントは
カトリックに抗議する(プロテスト)
からとられた総称で
プロテスタントにもたくさんあります
※カトリックとプロテスタント、お互い仲が悪い印象もありますが、そうではない部分もたくさんあります
どちらかというとプロテスタントは
厳格な信仰を守っているように思います
※カトリックからの個人的感想です
厳格な解釈から信仰を守り続けている
神様とイエスと聖霊を信じているのは
どちらも同じですが
それ以外を信仰の対象にしないようにがんばっている
そんな印象がプロテスタントにはあります
※あくまで私の個人的感想です、プロテスタントの一部の宗派だけなのかもしれません
そういうわけで
キリスト教の宗派の中でもみんながみんな
ロザリオの祈りを唱えているわけではないです
カトリックではマリア様がとりつぎをしてくださる
と、信じていますが
マリア様を神様のようにあがめるべきではない
と、ほかの人たちは思っているわけです
ロザリオの意味
ロザリオのいのりは
聖母マリアが天に昇った今でも
亡くなった魂たちが天国へ行けるように
祈ってくださっていることを
私たちが応援する祈りでもあります
※ 参照「聖母マリアからロザリオを祈る人々への15の約束」
忘れられた誰かのためにもお祈りすることは
ステキなことだと思います
ロザリオの祈り方
ここからは専門用語がたくさん出てきます
※知っている人は読み飛ばしてください

主の祈り×1o回+アヴェマリアの祈り×10回+栄唱1回
これが基本で、1連(いちれん)といいます
1連を5回繰り返して、5連(ごれん)でロザリオが終わります
※7連のロザリオもあります(聖フランシスコのロザリオ)
これを1環(かん)と呼びます
環(かん)は冠(かんむり・わ)のことですが
もともと
ロザリオは「バラの環(冠、かんむり)」
といわれているところからきています
ここから
それぞれの祈りのことばをお伝えします
※カトリックに限定しています
使徒信条(信仰宣言)
天地の創造主、全能の父である神を信じます
父のひとり子、わたしたちの主
イエス・キリストを信じます
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ<
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って
全能の父である神の右の座に着き
生者と死者を裁くために来られます
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます
アーメン
主の祈り
天におられるわたしたちたちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください
わたしたちの罪をおゆるしください
私たちも人をゆるします
私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください
アーメン
アヴェ・マリアの祈り
アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子(おんこ)イエスも祝福されています
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎えるときも、お祈り下さい
アーメン
栄唱(えいしょう)
栄光は父と子と聖霊に
初めのように、今もいつも世々に
アーメン
ロザリオの玄義(げんぎ:今回は省略)
ロザリオを祈るときに玄義(げんぎ)という間に挟む祈りがあります
過去におこった神秘に思いをはせながら祈ることがあります
(そうするのが本来なのかもしれませんが)
1連ずつ祈る前に「この一連を捧げて……」という玄義が入って
どの玄義をピックアップするかは曜日によって決まっています
カトリックのロザリオの意味は聖母マリアへ取り継ぎをお願いする
他人のために自分の時間を使って
お祈りをする
幸せになるための基本
マリア様が一緒にお祈りしてくださっているので
励まされている気がする
ぜひ、みなさんもやってみてください