よくある質問に思い切って答えてみます。たとえば「どうして神様は見えないのか?」という質問は私が今も疑問に思っていることです。さて、すべて答えることができるか……。そういうわけで、答えがわかるまで今日書き始めた記事の公開はお預けになることでしょう。
ギモン1:キリスト教では神社に行ってはいけないって本当?

私の職場では毎年、年始に近くの仁保姫神社に初もうでしています。
昨年も私は事務所で留守番しました。
なぜ?と聞かれたので「キリスト教だから」と答えました。
それから1年たった、今年の初もうでのあと、同僚の職員2名からまた聞かれました。
「キリスト教のひとは神社に行くのはダメなの?」
その答えは、……。
やっぱり難しい質問です。
このときは「そうです」と答えたのですが、最近読んだ本には「神様はそんなに心が狭いお方ではない」と書いてありました。
神社に行くのはダメの根拠は、
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記 20:4-6
偶像礼拝をしてはならないと神様が伝えている部分です。
神様はそんなに心が狭い方ではないです。私が神社に行ったとしても、許していただけるでしょう(その根拠は私がもっと大きな間違いを行っているから、神社に行ったくらいで、神様はぶつぶついわれない)。それよりもキリストを信じるほうが大切。
ギモン2:キリスト教のキリストとは?
イエス・キリスト。聞いたことがあると思います。
イエスというのは名前で、キリストというのは「救い主」のことです。
キリストは聖書で「救い主、メシア」と表現されていることもあります。
イエス・キリストは名前と苗字ではないのでご注意ください。
ちなみにグーグルAIにキリストとは?と質問した答えはこちらです。
キリストとは、ギリシャ語で「救世主」を意味する言葉で、キリスト教の始祖であるイエスを指します。キリストの由来は、ヘブライ語の「メシア(マーシアハ)」で、「膏(あぶら)を注がれた者」「受膏者」を意味します。古代イスラエルでは、王や祭司、預言者などの就任の際に油を塗る習慣があり、この「油を注がれた者」が「キリスト」と呼ばれました。
ギモン3:クリスマスはイエス・キリストの誕生日なのか?
クリスマスは、キリストの降誕を記念する日のことです。
イエス・キリストの誕生日はわかっていないので、12月25日が誕生日というわけではありません。
暦の上でこの日あたりから昼間の時間がだんだん長くなるので、太陽の動きからクリスマスを12月25日に決めたようです。
ところで、降誕というのは、キリストは神なので「神様が天の国から地上の世界へ下って人間になって誕生した」という意味があります。
教会では「クリスマス」を「降誕祭」ということがあります。
クリスマスイブのイブは、前夜という意味があります(イブニング)。
だからクリスマスイブは12月24日の夜のこと(日の入りの後)。
というのも、ミサの考え方として「前の晩からその日が始まっている」からです。
ギモン4:誕生日があればイエスの命日もあるのか?
これも、会社の同僚から聞かれた質問です。
(ギモン3の誕生日ではなくて……、という説明は省略してしまったのですが、追加で命日のことも質問されました)
誕生日はわかっていないのですが、イエス・キリストの命日はわかっています。
(誕生日のほうは、晩年からだいたい30年くらい引き算したころが生まれた日だろうということで、西暦元年が決められました)
命日は聖金曜日で、その翌々日の日曜日が復活祭(イースター)です。
復活祭はクリスマスと同じかそれ以上に大切なお祝い日です。
ギモン5:キリスト信者はまじめで罪を犯さないのか?
歯が浮くような質問なのです。面と向かってこの質問をされたことがあります。
ええーーっと、(そんなふうに思ってもらっていたのかな?)そんなことはありません、誤解ですと返答しました。
そしたところ、いえいえ、あなたのことではありません、一般論です、とおっしゃられました。
ギモン6:キリストは神様なのか?
「父と子と聖霊の御名(みな)によって」といいながら、十字を切るのをご存じでしょうか?
父というのは神、子というのはイエス・キリスト(私はイエス様と呼んでいます)、聖霊は聖霊です。
これを三位一体の神といいます。神とイエス・キリストと聖霊は全部同じ神という意味です。
ギモン7:キリスト教徒は十戒を守っているか?
十戒はモーセが神様から授かった人間の守るべき10のいましめのことです。
1.わたしのほかに神があってはならない。 2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。4.あなたの父母を敬え。5.殺してはならない。6.姦淫してはならない。7.盗んではならない。8.隣人に関して偽証してはならない。9.隣人の妻を欲してはならない。10.隣人の財産を欲してはならない。
なのですが、私がかろうじて大丈夫といえるのは、5.の「殺してはならない」だけだったりします。
ギモン1でも書きましたが、「私はもっと大きな間違いを行っているから、神社に行ったくらいで、神様はぶつぶついわれない、それよりもキリストを信じるほうが大切」という意味も分かっていただけると思います。
私は神様からすると、十戒も守れない人類の落伍者なのですが、「イエス様が神様へ私をとりなしてくださる」ことを信じています。
ギモン8:バレンタインデーもキリスト教に関係しているのか?
セントバレンタインズデーのことですね。
バレンタインデーをネットで検索すると、
- 2月14日はギリシャの女神ユーノーの祝日
- 女神ユーノーは家庭と結婚の神
- キリスト教の司祭ウァレンティヌス(バレンタイン)は、婚姻を禁止されて嘆き悲しむ兵士たちを憐れみ、内緒で結婚式を行ったため、皇帝に処刑された
- ウァレンティヌスの処刑がユーノーの祭日だった
これでバレンタインデーが2月14日になったそうです。もとはというと、女神ユーノーのお祭りです。バレンタインデーのことを今さらながら調べていて、びっくりしてしまいました(日本で例えるなら、神社なのに仏像が置いてあるような違和感)。
ギモン9:日本にキリストの墓があるときいたことがあります
以前の職場で東北地方担当だったため、東京から青森県までドライブしたことがありました。あるとき、道路標識に「キリストの墓 →」の案内があって、何だろうと思っていました。
イエス・キリストは、いまからおよそ2000年前にゴルゴダの丘で磔刑に処されたユダヤ人である。そのキリストが、人知れず生き延びて日本に渡り、青森の地で本当の生涯の幕を閉じたと言われても、なかなか信じられるものではないだろう。しかし現実に、青森県三戸郡の新郷村に「キリストの墓」は存在している。B級スポットの一端であることを承知の上で、現地に伝えられる背景を攫ってみると、処刑されたのは実はキリストではなく、双子の弟であるイスキリだった、という前提がまずある。ダイヤモンドオンライン
イスキリ?この後の記事は読んでいないので、コメントは差し控えます。
ギモン10:どうして神様は見えないの?
神様が見えない理由について、今読んでいる本にその理由が書いてありました。そうかもしれないと思ったので、お伝えしようと思ったのですが、うまくまとまらないです。
私が、勝手に解釈したことを代わりにお伝えします。
- 人間は最初神様を間近に見ていました
(アダムとイブ、いちぢくの葉っぱで隠すことになったできごとが、そのなごりで聖書に書かれています)。 - ところが神様のことがいつも見えていたから、いやになった
たとえば、テレビでドラマを見ている時でも、画面の隅にタレントの顔が丸い枠の中にいつも表示されているような感じで神様がそこにいらっしゃいました。しかも、その丸い枠の中の神様はテレビを見ている私に話しかけてくることもできたのです。 - 神様は人間のことをいつも見ていたい
たとえば、ケージの中で飼っている小鳥をじっと眺めているような感じです。なぜですか?それが趣味で、大好きなことで、足りないものはないか心配しているからです。
このあと何が起こったかというと、人間のほうが「神様はあっちへいってよ」と、いってしまいました(聖書的にはわかりやすく、アダムとイブが蛇にそそのかされて食べた善悪を知る木の実のはなしになったのかもしれません)。
それで、神様があっちへ行くのではなく、神様は人間をエデンの園から追い出しました(距離をとった)。
この話には続きがります。
神様は人間のことが嫌いになったわけではないです。いまでも、こっそり、人間のことを見ていらっしゃいます。それは、悪さをする人間を懲らしめるためではなく、なにかたりないものはないか?という老婆心(もっといえば、愛)からのことです。
神様の愛は、人間へただで注がれつづけている愛といわれています。
答えになっていたでしょうか?
おまけのギモン11:奇跡を目撃した人もいますが、なぜ私には見えないのですか?
奇跡を目撃すると、「ああ、本当に神様はいるんだ」と思います。神様のことを見たら、「やっぱり神様はいたのだ」と思うことでしょう。
ギモン10のところで取り上げた本にこんなことも書いてありました。
奇跡を見て感動し、神様の存在を深く信じるようになった人でも、次の奇跡がしばらく起こらなければ不安になって「やっぱりあれはただのまぐれだったのだろうか、神はいないのかもしれない」と思うようになります。
※参考:「讃美の力」マーリン・キャロザース
この思いは悪から出ています。神様を妨害する悪が不安をあおっています。
見えなくても心配しないで。神様はいます。