「神様がいるという証拠はありますか?」と質問があった。神様がいるという証拠は、残念ながらない。そこで、今回は証拠とは何か、から考えてみます。それは見えるものであればいいのか?理解できないことでもいいのか?見えなくても理解できなくても信じることのほうが証拠を見つけるより大切かもしれません。

神様がいる証拠はない?

山上の説教
山上の説教

神様がいるという決定的証拠はない

といっておきます

歯切れの悪い言い方で

申し訳ないのです

世の中には

「神様はいます」と

断言している人が何人もいらっしゃいます

中には

「神様を見た」という人や

「神様と出会った」という人もいらっしゃいます

「奇跡を見た」「体験した」という人も

たくさんいらっしゃいます

奇跡は信じるためにある

奇跡は珍しいことでないそうです

奇跡がなぜ起こるか?

私が属しているキリスト教会の

カトリック宗派では

「奇跡は人が神様を信じるために起きる」

といわれています

確かに奇跡があると

神様の実在を感じることができますね

ところがこの奇跡が起きても

信じる人もいるし

なかには、信じない人もいるのです

どこまで行っても

堂々巡りのような気がします

(奇跡があってもなくても

神様を信じる人もいれば

神様を信じない人もいる

という意味で、堂々巡り)

このような状態でもあるので

いったん、

神様がいるという証拠はない

といっておきました

証拠がなくても信じることはできる

神様がいるという証拠はありませんが

神様を信じることはできます

イエス様のことばの中にも

「見ないで信じる者は幸いである」

という言葉が

ヨハネによる福音書 20:29 に書かれています

その場面はこうです

死んだあと復活したイエスが

釘の穴に指を入れてみないと信じない

と、いったトマスに

「わたしを見たから信じたのか

見ないのに信じる人は幸いである」

と言われた場面です

この言葉は

いまの私たちにも

向けられている言葉だと思います

それでは、果たして

見ないで信じてもいいのでしょうか

あるいは見ないで信じることは

できるのでしょうか?

見ないで信じることはできる

見ないで信じることができるとも書いてあります

それは、聖書のもうひとつの個所

思い出していただきたいのは

有名な「山上の垂訓」の場面です

この中には

こころの貧しい人たちはさいわいである

天国は彼らのものである

とか、

悲しんでいる人たちはさいわいである

彼らは慰められるであろう

とか

柔和な人たちはさいわいである

彼らは地を受けつぐであろう

とか

義に飢えかわいている人たちはさいわいである

彼らは飽き足りるようになるであろう

とか

あわれみ深い人たちはさいわいである

彼らはあわれみを受けるであろう

など

幸せに近い人のことが書いてあります

ここで、この次の文章が

お伝えしたい箇所です

心の清い人たちはさいわいである、彼らは神を見るであろう。 マタイによる福音書5章8節

神様がいるという証拠はないが信じることはできる

心の清い人は神様を見るであろう

と、書かれていました

疑うのではなく

信じてみてはいかがでしょう

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