かみさまが「あくま」もつくったんだとしたら、なんかはなしがややこしくない?どんなかんがえがあったんだろう。そのこたえだけど「あくま」は、わるいみほんなんだ。「あんなふうになったら、はめつするよ」っていうイミね。「あくま」はみえなくても、ちかづくとあぶないからちゅういしよう。
ヨブ記

さいしょに、せいしょのこのぶぶん。
ちょっとぎもんにおもったところもあったので、こんなふうにかいしゃくしました、ということをみなさんとシェアしたいとおもいます。
さいごにヨブは、またかみさまからおめぐみをいただくことになるのですが、
それにしてもこのぎもん
- かみさまはサタンとこんなかんけいなのか?
- かみさまをしたっているヨブは、かみさまにとってじまんのタネ
- サタンはジンルイのいのちをうばうことができる
ここから、ボクなりのかいしゃくをしてみます。
かみさまは、すべてをつくった
だから「あくま」もつくったんだよ。
あくまは、さいしょ、てんしだったけど、
(かいしゃの「じょうし」にはんぱつする「ぶか」のように
ちょっとできる、せいせきゆうしゅうな)
「てんし」が
あくまになっちゃったんだとおもう。
「あくま」はボクたちのためにあるんじゃないし
ボクたちが「あくま」のためにあるのでもないよ。
かみさまは、わざと「あくま」をつくった
もしも、かみさまが、てんしのいちぶを「あくま」にしたとしたら、それは
ジンルイへのわるい「みほん」にするためだとおもう。
もしも、いちぶのてんしが、かみさまにはんらんをおこして、「あくま」になったとしたら
それでもかみさまは、
その「あくま」たちをつかって、ジンルイに、なにかをつたえようとしているのかもしれない。
ジブンにもあるあくま
ときどき、ボクのココロにも「よくない」ことがしのびこんでいることがある。
ボクはそれを「あくま」だとおもっている。
「あくま」は、ひかりのあたっていない「かげ」のぶぶんなんだ。
よい「おてほん」
「あくま」が、まったくはいりこんでいない(ような)ヒトもいる。
そのヒトにきいてみると「いやぁ、ジブンもよわいところがあって……」
なんて、いわれることもある。
「よいひと」とは「みならう」ための「よいおてほん」で、「あくま」は「はんせい」するための「わるいみほん」かもしれない。
それじゃあ、
なぜ「はんせい」がひつようなのか?
「はんせい」するりゆうは、
よりよいじんせいをおくるためだ。
それから、いばらないようになるためでもある。
「いばる」っていうのは、
「じぶんは、かんぺきだ」っておもうことだ。
かみさまは、
しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。マタイによる福音書 19:30
このようにされるかただからだ。
だから「ジブンは、なにももっていなくて、よわいヒトです」って、いうヒトをてんごく(しあわせ)へさきにつれていってくれる。
「あくま」がいるいみ
だから、あくまだって、そんざいするいみはある。
「あくま」は「はんせい」するための「わるいみほん」で、かみさまはすべて「けいさんずみ」ってわけだ。
さいごに、あくまチームがかみさまチームにかってしまったらいやだけど
さいごにかつのは、かみさまチームだときまっている
(せいしょに、よげんとしてかいてある)
かみさまは、あくまもつくったのですか?
ボクは、こうかんがえている。
かみさまは、「あくま」もつくったんだよ。
かみさまは、すべてをつくったし
かみさまにとっての、そうていがいはない(ハズ)。
「あくま」は、かみさまにはんぎゃくしてうまれたのだろうけど、
かみさまは、その「あくま」より、いちまいうわてだ。
かみさまは、あくまを、ボクたちのためにつかうこともできる。
だけど、あくまには、ぜったい、ちかよってはいけないよ。
ボクたちが「あくま」のためにあるんじゃない。