クリスチャンは「あくまばらい」をすることができますか?ってきかれたから、できるヒトもいるよってこたえておいたんだ。えいが「エクソシスト」とか、まさしくコレだもんね。だけど、みんながみんな、できるわけじゃないし、「あくまばらい」がしたくてクリスチャンになってるわけでもないよ。
あくまばらいができるひともいる

クリスチャンのなかには「あくまばらい」できるひともいるし、できないひともいるよ。
それはたとえば、ゴルファーのなかに、プロもアマもしょしんしゃもいるのと、にている。
クリスチャンで「あくまばらい」をやったことがあるヒトもいるし、そんなのやったことも、きいたことないっていうヒトもたくさんいる。
あくまばらいとは
あくまばらいだけど、カトリックでは「あくまばらい」ってどういうものかが、きまっているよ。
できるヒト(やってもいいヒト)もきまってる。
あくまがぬけたおかげで、あるけなかったり、きこえなかったヒトが
「あー、あのひとあるけるようになったんだ〜」とか
「きこえるようになったんだ〜」みたいな、ふしぎなことをボクもめのまえでもくげきしている。
こんなふしぎなできごと、なぜおこるかというと、
ふしぎなできごと
ふしぎなできごとは、なんのためにおこるんだろう。
このふしぎなことがおこるいみって、なんだろう?
せいしょにかいてあるんだけど、かみさまを「しんじるため」に、きせきがおこるんだ。
まいにちがむかえられるのも「きせき」だとしたら、かんしゃしかないよね。
ふしぎなできごとはぜんぶ、かみさまをしんじるためにある
びょうきがなおったり、あるけないひとがあるけるようになったり、みえないひとがみえるようになったり、あくまがぬけたり。
ぜんぶ「しんじるため」にあるんだ。
だから、「へー、すごいね~」だけじゃ、いけないんだ。
かみさまからすると、しんじるジンルイでいてほしい。
せっかくきせきがおきても、しんじないジンルイがいたら「ええぇー、これでもしんじないの?」っておもってるんじゃないかな、かみさまは。
あくまファンクラブ
ここで、ちゅういすべきは、
あくまチームのほうでも
ふしぎなことをおこせるということだ。
それでかみさまチームとたいけつしようとしている。
どういうたいけつかというと、
ジンルイの「あくまファンクラブ」を「かみさまファンクラブ」よりもおおきなものにしようとしているたいけつだ。
だから、まちがえても、
- うらない
- 映画エクソシストにでてくるようなあくまのちから
- ほかのかみさまや、ぐうぞう
をしんじてはいけないんだ。
クリスチャンはあくまばらいができますか?
クリスチャンのなかにも「あくまばらい」できるヒトはいるよ。
「あくまばらい」は、かみさまを「しんじる」ためにあるんだ。
ジブンがふしぎだっておもったことは、なんでも「かんしゃ」するのがいいけど、あくまのちからかもしれないから、そこのところはちゅういがひつようだよ。
※イエス様のことばによれば「あくまはあくまばらいできない」ということになっています。
イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。マタイによる福音書 12:25-26
それじゃあまたね。バイバイ。