
前回、旧約聖書に出てくるハンムラビ法典のことをお話ししました。新約聖書にはハンムラビ法典よりももっといい方法があることが記されています。後半ではそのお話をします。
新約聖書では復讐よりもっといい方法が紹介されている

新約聖書にはもっといい解決法が示されています。これも皆さんも何度か聞いたことがある、なじみの深い言葉です。
たとえば、
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイによる福音書 5:43
聖書に書かれている平和です。
いまも戦争が絶えません。
戦争当事国の心中を察するに、敵を愛することは本当に難しいことだと思います。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 ローマの信徒への手紙 12:19
私たちが復讐しなくても、神様が復讐してくださる。
そう考えると、少し気が楽になります。
「敵が自滅するのを待つ」ような気持になるからでしょうか(ほんとうはそれもアウトでしょうが)。
ちなみに、上記引用の「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」は、旧約聖書からの引用で、多分この箇所かなと思います。
わたしが報復し、報いをする 彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。 彼らの終わりは速やかに来る。申命記 32:35
ここまで、復讐について聖書から引用してきました。
ここから、もう一つの疑問点について書いてみます。
復讐とイエス様の十字架の意味は、まだ、なんだかよくわからないと思います。
私なりの解釈をしてみます。
十字架によって敵意を滅ぼされました?
どうやって、敵意を十字架によって滅ぼされたのでしょうか?
※敵ではなくて、敵意を滅ぼした。
ここを理解できていないで半世紀近く過ごしてきた私です。
しかし、いま、理解しました。
たぶん、
自分は悪くないのに十字架につけられた、それってとても反発したくなることだと思いますが、その死を文句の一つも言わずに受け入れた、こうすることが遺されたあなたたち(わたしたち)みんなを救う唯一の方法なんだよ、とイエス様が手本をしめしてくださった。
からだと気づきました。
このお手本通りに行うのはとても苦しい、つらいことです(私には)。
(もちろん、人間としてお生まれになったイエス様にとっても苦しい、つらい出来事だったと思います)
文句の一つも言いたくなると思います。
殉教者たち
そのときに、イエス様が先におこなわれているから、勇気をもって自分も続こう、という気持ちになる人が何千人に一人くらい、いらっしゃるかもしれません。
そうです、そういう人たちは日本にもいらっしゃいましたよ。
1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。カトリック中央評議会
殉教者はみんなそのような思いだったのではないでしょうか。
※これは、私が納得しているだけのことなので、本当のことは最寄りのカトリック教会にいらっしゃる親しい神父に聞いてみてくださいね。別の考え方を教わっても、私のことを恨まないでくださいね。
新約聖書では復讐よりもっといい方法があるよと教えられている
しかし、「他人のために死ぬ」というのは、戦争中にほとんどの兵士もやってきたことです。
彼らの死は、イエス様と同じだったのでしょうか?
どこが違うか、一緒に考えてみましょう。
- …
- …
- … (※死者を批判することになるので言葉にはしません)
新約聖書のイエス様はIQ200以上の頭脳をいかして、復讐よりもっといい方法があるよ、たとえばこれだよ、と教えています(※個人的意見です)。
なぜなら、人間が思いつかない優れた解決方法を見通す力があったから。
そして、最期にそれを実践し、遺された私たちに勇気を与えるよう、自らお手本も示してくださいました(ついでに3日目に復活するという出来事もありました)。
イエス様の示された方法が、本当に優れた方法かどうか、信じるか信じないか、あなた次第です。
そんなことを黙想している今日この頃です(私もイエス様に続くことができますように)。