以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。テモテへの手紙一
1章13節(新共同訳)
使徒パウロは迫害者だった

パウロがキリスト教徒を迫害していたときのことが書かれています。私がこの手紙のこの部分を引用しなくても使徒行録にも書いてあります(のでみなさんはよくご存じのことでしょう)。
最近、仕事中に日本語の聖書朗読を聞いています。今日は牡蠣(かき)部の作業を手伝いながら、テモテ1を聞いていました。聞く聖書の個所は毎回バラバラです。
今回は、感想を書き始める初回記事なので、この箇所を選んだわけでもありません。テモテ1を聞いていて、涙が出たから記事にしています。どの箇所が感動したのかは、今回書きません。あしからず。
これから毎日感想を書いていきます。難しいことは書くつもりありませんし、聖書のどの箇所だったかも、いちいち覚えていられないので共有できません。今日はスタートです。あたかもパウロがイエス様と出会ったときのように突然歯車が回り始めました。パウロと同格というわけにはいきませんが、私も同じかもしれない。そう思いました。スタートは突然やってくる、ような。
聖書を学んでみようと思った
ダビンチコードという映画を見たことがあります。その映画で、聖書は暗号で書かれている書物ということになっていました。
聖書の知識がないと預言の内容も理解できない。このことは、高原剛一郎氏がYouTube動画で言われていました。
聖書はすべて信じて、最初から最後まで何度も読んで、初めて黙示録の預言まで理解できるそうです。
それは、
パウロがイエス様と出会ったときと同じように突然歯車が回り始めた
ちいさなちいさな発見を繰り返しながら、聖書は理解していくものなのでしょう。スマホで聖書朗読を聞くだけではだめなのかもしれませんが(毎日「読みなさい」と書いてあります)、気が付いたことは日記に記していこうと思います。
聖書は預言の書です。私も知らなかったのですが、聖書に書かれていたことはことごとく実現しています。
なぜ預言が書かれているのか?別記事に記しておきます。