
カトリックの黒歴史を検索すると「性虐待スキャンダル」とか「異端審問(中世ヨーロッパ)」「人種的反ユダヤ主義」「カナダ先住民の寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨」「アイルランドの母と子の家」「中世の魔女狩り」などが出てきました。中世以前の話が多いかと思ったのですが、現代になって明らかになった黒歴史もあります。今回は、そんな説明は一切致しません。
黒歴史がないか自分でも反省してみる
なぜかというと、カトリックの黒歴史は、遅かれ早かれ謝罪や和解が進められているからです。そんなことでキリストを信じないと決めるのではなく、自分も同じ失敗をしていないか?胸に手を当てて考えてみるほうが有益だと思ったのです。
そこで、私の半生を反省してみます(恥ずかしいのでデフォルメしています、悪しからず)。例えば、
もったいないから私はいらない
テーブルに残った夕食。だれも食べないのでしかたがないから食べる。今日の夕食がそうだったのですが、母がスーパーで買ってきたイカリングが残っていました。私は揚げ物を控えていたので食べませんでした。でも、片付けている途中で「もったいないから」食べました。
「もったいないから」は、単に自分向けのいいわけかもしれません(母に対してのいいわけや、反抗なのかも?)。
もったいないから私は使わない
もったいないから使わない(食べないも含む)は、それを用意してくださった人に対して失礼ではないかと思ったのです。
先日、職場に来られている方から自転車をいただきました。その方は、引っ越しされるので、自転車を持っていけないのだそうです。ご自宅まで自転車をいただきにあがりました。
その自転車ですが、内装変速機付き(外装変速機よりも故障しにくいので高価です)、ツーロック付きで、さらにライトも自動点灯式でした。どの部品をとっても私が使っている自転車より数段格上です。
それで、兄にあげてしまいました。自転車が欲しいといっていたので。ここで胸に手を当てて考えました。どうして兄に自転車をあげたのだろうか?
- 自分では使わないから?(自転車は持っているから?)
- 兄は自転車が必要だから?(必要なのでしょうが、いまだに倉庫に置いたままになっていた:昨日の状況)
- 自己満足なのではないか?(いいことをしたという思い上がり?)
考えすぎかもしれませんが、このように考えてしまったわけです。それと同時に、兄のことも考えていました。というのは、尊敬している兄の立場だったらどう考えるだろうかと想像してみたのでした。
- ほしいものを欲しいといえる(私とちがって、恥ずかしがらない)
- いやなこともいやといえる(NOというのは勇気がいります)
- そとみ(外見)は昔からうまくやっているようだけど、内なる問題やニーズもある
兄は、むかしから外交的・積極的で目立ちたがり屋なところがあります。
もったいないから使わないのではなく、自分の欲望(ニーズというのかもしれません)を謙虚に受け止めて、それを恥ずかしがらずに公表でき(足りない自分を表明し、ごめんなさいといえる)、それが手にはいったら感謝する。
私に足りないのはこんなことかもしれません。
せっかくだから私が使います
「だれも使わない?それなら私が使いましょうか」という身の振り方のことです。これも上の例「もったいないから私は使わない」と同じです。欲しいならそういえばよかったのです。
反省したことは、
- ありがとうございますがいえない、私
- 自分のニーズや欲望を隠している、私
- そこにあるから、誰も使わないからといいわけしている、私
このようなひとにならないよう注意しましょう。ここで、思い出すのは、
安売りしているものしか買わない
そういえば、私はスーパーに行くと必ず、安売りコーナーや安売りの黄色い値引きシールを探してしまいます。
スーパーの値引きシールは、どうして魅力的なのでしょうか。
私にとっては「お得感がある」「他人よりも有利な条件をえることができた」「家計の助けになる」という満足があります。
でも、本当に必要なものだったのかというと、今はいらないし、健康にとってもよろしくないものが多かったように思います。
安売り商品を発見すると、健康のため控えている「おやつ」や、おかずだけ買いに来たスーパーなのに「食パン」も買ってしまいます。
おかげで総コレステロール値と血圧が昨年に比べて高くなってしまいました。そのことが、今朝わかったのですが、どうやってわかったかというと、
ただで手に入る?スゴイ
別にここで紹介する必要はないのですが、この記事を書くきっかけになったのでお伝えしておきます。
献血すると血液検査の結果が届きます。今朝、日本赤十字社【ラブラッド】から届いたメールを初めて開いてみました。献血の結果を確認して(その結果は上述の通り)、これはスゴイと思ったのでした。
年に一度の会社で行う健康診断にプラスして、頑張れば年に3回血液検査を追加できます。

タダで手に入ると、それだけで『自分にとって本当に必要なものなのか、いらないものなのか?』を考えなくなりませんか。
ラブラッドのことをいっているのではありません(厳密にいうとラブラッドの検査結果はタダで手に入るわけではありません、血の代償がありますから)。
スーパーの安売りシールで考えもせず買い物をしてしまう私自身のことを反省しております。
話題がそれてしまったので、中間まとめしますと、私が本気で反省しないといけないのは、
ありがとうをいえない
ということかなと思いました。それに、
ごめんなさいをいえない
これも重症です。
そのほかにも反省すべきことがあるのですが、ここから先はほんとうに内容をデフォルメしなくては、書き続けることができません。
親しい人へのマウント
たぶん、初対面の人にマウントをとることはしないのですが、少しでも親しくなるとマウントをとっているかもしれません(いや、マウントをとっています)。
マウントをとるというのは「相手よりも自分の立場や能力が優れていることを示し、威圧的な態度をとること」を指すそうです。具体的には、
- 自慢話→なるべく控えようと思います
- 他人を見下すような発言→これ、ありますごめんなさい
- 過去の武勇伝などを語る→これ、あります、控えます
だそうです。
私自身は、親しい人に対してもっとひどかったかもしれません。助手席から運転してくださっているひとに対して文句をつけたり、自分が運転しているときはわざと乱暴な運転をしたりしました(ほんと、ごめんなさい)。
運転中だけでもいろいろ思い出されるのですが、仕事中でも、家庭内でもいろいろありました。
仕事のストレスから親しい人にあたってしまっていたのでしょうか。
そういうときは、ストレスの原因になっている仕事を思い切ってやめるといいかもしれません。このことは次の項目で深堀してみます。
頑張れば報われると思っている
逆にいうと、自分は頑張っているのにどうしてわかってくれないのだろうか?という気持ちがあったのでしょう(とくに、家族に対して、ごめんなさい)。
聖書的にいうと神様があなたに報いてくださることなので、頑張れば報われるというのは傲慢ということになります(私自身はがんばって努力すれば何とかなると思っていますが、それでも報いるかどうかを決められるのは神様です)。
悪ってなんだろう?
これまで、私自身の黒歴史を反省してきました。聖書的にいう悪とは「神様から離れること、離れていく方向に向いていること」だそうです。
私は、頑張れば報われると思うことを「がんばって」つつしまなくてはなりません。
私も仕事をやめてみました
ところで、前述のとおり私も仕事をやめてみました。それで気づいたのは、
- 仕事が大好きだった私
- 通勤電車がストレスの3割を占めていた
- 好きな仕事にもストレスはある
ということです。
今の仕事にもストレスはあります。でも、仕事だから人間関係をおろそかにしてもいいだろう、とは考えないようにしています。代わりに、
仕事を好きになるといいかもしれません。好きなことなら、苦手な接客でも断りの電話でも快感になります。
快感にかわってしまえば、それを感謝するだけです。神様、転職はできないとあきらめていましたができました、感謝します、のような。
謝れない私
こうしてみると、私の黒歴史に横たわる本当の根本原因は「謝れない」「自分こそは正しい」「他人から認められたい」という気持ちから出てきているような気がします。
謝れないのは、私の弱さです。
何か大失敗したときは、社会のシステム上仕方なく謝ります。
謝る前の1日、1時間、1分前は、気持ちがソワソワします。
そんないやな思いをしたくないから大失敗はしたくないし、完璧でいたいと思っています。
小さな失敗は大きな誘惑
何か小さな失敗したとき、隠せるものなら隠してしまいたいと思ってしまいます。
ま、いいかと思った瞬間から気が楽になります。どうってことない、そう思ってしまうのでしょう。
大失敗よりも小さな失敗のほうが誘惑が大きいです。
カトリックの黒歴史で気がついたのはあやまれない、感謝しない私
私の黒歴史を思い返しながらその原因を探ってみました。「謝れない」「感謝しない」という姿勢は改めなくてはなりません。みなさんはどうやって、この問題を片づけていらっしゃるのでしょう?謝れる人や感謝される人に出会うと「すごいひとだ、すがすがしい」と思います。
私はもうしばらく「謝れない」「感謝できない」自分と付き合っていきます。その一歩、応援していただけると嬉しいです。