
イザヤ書は旧約聖書の中の三大預言書の1つです(あと2つはエレミヤ書とエゼキエル書)。紀元前8世紀の預言者イザヤの伝承を後の時代にまとめたものらしいです。ゼカリヤ書は紀元前2世紀・3世紀ころに書かれた書物です。そうするとこれからご紹介する内容は、イエス様が生まれる200年または700年前に預言されていたことになります。キリストの到来について、大雑把ですが私が忘れないようにするためにも、ご紹介させていただきます。
処女懐胎
聖母マリアは処女懐胎したといわれています。
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。 マタイによる福音書 1:18
イエス様が生まれるときのことですが、なにもわざわざ処女懐胎でなくてもかまわないと思いましたが、この新約聖書の記述にも旧約聖書で前振りがありました。
それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。 イザヤ書 7:14
処女懐胎にしなくてはならなかった理由がありました。それは、ある家系からメシアは誕生しない、という聖書の記述(預言)です。
それは、この箇所になります。
主はこう言われる、「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである」。エレミヤ書 22:30
この人というのは誰のことを指しているのかというと、この引用の少し前に書いてあります。
「ユダの王エホヤキムの子コニヤがわたしの右手の指輪であってもわたしはあなたを抜き取る。 エレミヤ書 22:24」とあるので、エホヤキムの子どもコニヤ(エホヤキン)ことです。
※エホヤキムの子どもエホヤキンはユダ王国の第19代の王様でヘブライ語では「エコヌヤ」「エコニヤ」「コニヤ」とも呼ばれていたそうです。
ところが、マリア様の夫、ヨセフ様は、このコニヤの子孫らしいのです。
ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。 マタイによる福音書 1:16
というわけで、ヨセフ様の家系からメシヤが生まれたのではなくて、マリア様のいらした家系だったからメシヤが生まれた、だから処女懐胎だったのかなと思いました。
※実をいうとヨセフ様もダビデの子孫という記述があります。
ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 ルカによる福音書 2:4
この2つの記載で矛盾が起こらないように解釈すると、ヨセフ様はダビデの家系でもあり、コニヤの子孫でもあるのでしょう。
イエス・キリストの系図
新約聖書の一番最初に、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書があります。この新約聖書の最初のマタイによる福音書の最初に書いてあるのがイエスの系図ですね。
なにも系図なんか示されなくても、キリストを信じるひとは信じると思うのです(私は)。ユダヤのひとたちは、系図があったから信じられたのかもしれません。
昔から旧約聖書に書いてある神様の言葉(預言)をよく調べて知っていたので、こういうことが起こったらそれは神様がなさったことだと無条件に信じられたのでしょう。
アブラハムの子孫であるキリスト(メシヤ)
旧約聖書には、メシアはアブラハムの子孫と書かれています。
また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである。 創世記 22:18
この箇所は神様がアブラハムに向かって言われた言葉なので、あなたというのはアブラハムです。
創世記に書かれていたこのことが実現したのだ、ということをパウロは記しています。
さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。 ガラテヤ人への手紙 3:16
子孫たちという複数形ではなくて、単数形「子孫」で書かれていたからこれは、メシアのことを言っているんだよと指摘しています。きっと、イエス様が処刑された後、メシヤが通り過ぎて行ったことに気付かなかったユダヤ人たちにもわかるように説明しようとしたのでしょう。
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。 マタイによる福音書 1:1
マタイの1章1節なので、新約聖書の最初のページにあたります。読んだ記憶がある人も多いと思います。
このあと、カタカナの名前がずっと続いて、イエス様の系図が示されます。最初の最初から、意味のない子入名刺の人名が並ぶので、いやになった人も多いことでしょう。
でも、その系図にたまに知っている名前が登場すると嬉しくなりますね。私が思い出すのは、ノア・アブラハム・ダビデ・ソロモンみたいなところです。ボアズとナオミは大好きなお話し「ルツ記」に登場するのでこれもうれしいです。
ダビデの子孫として生まれたメシヤ
それから、メシアはダビデ王の子孫から生まれることになっていたのですが、この個所でいいのでしょうか。こんな風に書いてあります。
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、 イザヤ書 11:1
エッサイというのは末っ子ダビデのお父さんにあたるひとです。新約聖書にもメシヤであったイエス様はダビデの子孫だったと書かれています。
ナザレ人と呼ばれるキリスト
そしてこの「エッサイの株から」の箇所、もうひとつの預言にもつながっています。それは、
ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。マタイによる福音書 2:23
この箇所にも出てくる「彼(メシヤ)はナザレ人と呼ばれる」という預言者のことばです。旧約聖書にはナザレのひととも、ナザレ出身とも書かれていません。最近は、聖書の言葉を検索して探すことができるのですが、ナザレという単語を検索しても旧約聖書には出てきません。それで、おかしいなぁ、聖書には書かれていない電商なのかなと思ったのです。
しかし、旧約聖書に書かれている箇所がわかりました。
それが、上でも紹介した「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び」の個所です。若枝のこと示す「ネツァール」からナザレという名前が生まれました。ナザレの町にはエッセネ派という熱心なユダヤ人が住んでいて、そこから新しいナザレ(若枝)の共同体が生まれたのです。
私はこういう裏話を聞くと、へぇーそうだったのか、と感心します。神様が仕組まれたこの「洒落」をを瞑想します。「どうやったら思いつくのだろう、神様は」と。
きっと、神様はニコニコしながら「みんなが気付いてくれるだろうか?」と、人類の反応を見ていられるような気がします。
ユダヤのベツレヘムでメシヤが生まれる
新約聖書の何百年も前、旧約聖書にこのような記述があります。
しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。ミカ書 5:2
こんなことが書いてあるから、ヘロデ王が「メシヤはどこで生まれることになっているか?」と学者たちに質問したのでした。
彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています マタイによる福音書 2:5
この答えを聞いたヘロデ王が保身のためにベツレヘムで2歳以下の子供をすべて殺すように命令したのでした。
王としてのキリスト
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。 イザヤ書 9:7
旧約聖書のこの箇所は王なるキリストのことだと気づきました。ここを踏まえて書かれたのがルカによる福音書の文です。
彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、 ルカによる福音書 1:32
キリストは裏切られる(値踏みされる)
イスカリオテのユダがキリストを裏切ります。ユダは彼ら律法学者や祭司長たちへこう言います、
言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 マタイによる福音書 26:15
ユダが手にした銀貨30枚の行方も、旧約聖書に書いてある通りになったのですが、そのことは省略します。銀貨30枚というと、この箇所があります。
わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。 ゼカリヤ書 11:12
銀貨30シケルというのは人間を買う(奴隷)ときの値段なのだそうです。
だから、キリストも贖い・身代金としてこの30シケルで裏切られたのでした。
何百年も前に旧約聖書で預言されたキリスト誕生の伏線を新約聖書で回収
旧約聖書に書いてあることなので、イエスの誕生にキリストの意味を持たせたのかもしれない。そう思えなくもないです。
でも、聖書をその通り信じてみてはいかがでしょう。わざわざ、ひねくれた屁理屈を考えて無理やり聖書を否定しなくてもいいです。
聖書の記述がもしも間違いや認識違いを含んでいたとしても真理の書に違いないからです。