神様と会うため狭い門を通るということ
針の穴

この箇所ですが、なにか、受け入れられない聖書の言葉だと思っていました。

先日、教会のミサで朗読された箇所です。

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことだろう。そして、それを見いだす者は少ない。マタイによる福音書 7章13-14節

「狭い門から入りなさい」というイエス様の言葉。「ラクダが針の穴を通る」例え話と並んで語られるこの言葉は、天国に入るのがいかに難しいかを私に問いかけます。そんなことってあるのでしょうか?

弟子たちも「それなら誰も救われないではないか」と疑問に思ったように、私もそう思いました。ですが、ミサの説教でこの考えを大きく変えられました。今回はそのお話をいたします。


「狭い門」を通るということ

重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。

マタイによる福音書 19章24節

このラクダが針の穴を通るようなものだとイエス様がいった言葉は、天国に入る人は多くない、と続きます。ペトロが疑問に思ったようにそれだったら天国に入れる人は全くいないのではないかと思ってしまいました。

ミサのご説教ではこのような解説がありました。

罪人が通る道

当時のエルサレム神殿には、正門のほかに脇に「狭い門」があったそうです。正門は、身に汚れのない、清らかな人だけが通れる門です。一方、生まれつきの病気や障がい、感染症を抱える人々は「罪人」とされ、正門を通ることを許されませんでした。そのため、脇の狭い門を通ったといいます。

イエス様は、この「狭い門」を通るようにと私たちに語りかけられました。それは、「あなたは劣っているのだから、他人を妬まず、その場で耐えなさい」という、辛いメッセージのようにも聞こえますが、そうでもありません。

私が考える神様に通じる狭い門

人生には、不可解で納得のいかない出来事が起こります。交通事故、病気、失業、大切な人の死。私自身、理不尽な交通違反で罰金を取られたりすると、「なぜ自分だけが」と怒りが込み上げてきます。

職場でもそうです。周りの人がいい加減な仕事をしているように見えて、自分だけが頑張っているように感じてしまう。そして、彼らを憎んだり、罵ったりしてしまう自分に嫌気がさします。

ですが、「狭い門」の教えは、そうした怒りや妬みを手放しなさい、という神様からのメッセージなのかもしれません。

苦しみを受け入れる忍耐

苦行は自分を鍛えるためのものです。

イエス様が示した忍耐」、自分を陥れるような理不尽な力に反発するのではなく、謙虚にそれを受け入れることです。それは、自分の力ではどうにもならない運命を、神様からの召命として受け止め、畏れ敬うことなのではないでしょうか。

怒りや妬みを手放すということ

私は根拠もなく自分は特別だと思っています。周りと同じではいけないし、劣っていてはいけない。

しかし、狭い門を通るように生きることは、「あなたは他の人と同じく、弱く、不完全な人間なのだ」と自覚し、その事実を静かに受け入れることだと思いました。

それは劣等感に浸ることではなく、怒りや妬みといった負の感情から自分を解放すること。そして、そのことで、自分を謙虚な心へと導く、尊い教えなのかもしれません。

(そういう意味で、イエス様はホントに頭が良かったんだろうなぁと思います)

私にこのメッセージを与えてくださったことで、もう一踏ん張り頑張れそうな気もしました。これから、周りの人を妬んだり、不満を抱いたりするのではなく、理不尽な状況を静かに受け入れ、日々を大切に生きていきたいと思いました。

ところで、本当にそうなのか心配になったのでもう少し、追加で調べてみました。お付き合いください。

聖書に書いてある針の穴とは?

針の穴はエルサレム神殿の門のことだという説は、広く知られていたようで、聖書学者や歴史家は、その説は後世にこじつけられたと考えていました。

この説の意味を含めて、この針の穴論争には、二つの解釈があります。

城壁の門(こじつけ)

先程も書いたように「針の穴」は、エルサレムなどの城壁にあった狭い門のことを指すというものです(ミサのご説教で聞いた話のこと)。

大きな門が閉まった後も通行できる小さな通用門があり、ラクダが荷物をすべて降ろし、ひざまずいてようやく通れるほど狭かったと言われています。

※ひざまずいて通ったというのも、先日のミサで神父様がおっしゃっていました。忘れておりました。

教会の説教などでよく用いられる説だそうですが、古代のエルサレムに「針の穴」と呼ばれる門が存在したという記述がみつからないそうです。

もう一つの説は、

そのものずばりの縫い針の穴(ビックリ)

文字通りの縫い針の穴を指すという説で、イエス様の誇張表現の1つだという説(ということは、他にもイエス様が誇張した箇所があったり、誇張した言い方をイエス様は時々なさっていたのかもしれません。ひょっとしたら、イエス様はお調子者だったりして?)。

ラクダが縫い針の穴を通れるわけがないので、これはホントのホントにムリなんだよとおっしゃったという意味らしいです。

もう、クリスチャンみんながっかりというか、クリスチャンに未来も望みもナシの説です。でも、

何が不可能なのか?

よくよく、考えてみてください。この箇所でイエス様が伝えたかったのは「人間が天国に入ることはムリ」という点ですが、ムリなりの条件がついています。

この方法だったらムリなんだよと。どの方法かというと、「人間が自分の力や富に頼って天国に入ることがムリ」という「力や富に頼って」の部分ですね。

じゃあ、どうやったら天国に入れるかというと、神によって天国に入る、です。これは、この聖書の箇所を続けて読んでいくとわかります。

弟子たちもビックリ!ありえない

イエス様の話に、驚いた弟子たちが質問します。ホントにあわてていたのだと思います。「それでは、いったいだれが救われるのですか?」

ラクダがムリでも子ラクダなら通れるということなら、弟子たちもそんなにあわてなかったでしょう。

でも「針の穴にはどうやっても通らないですよ、アリンコだって通れないですよ」と弟子たちは思ったのです。そして、こうも思ったかもしれません。

「なんのためにイエス様といままで一緒に旅してきたんだろう」「イエス様、ご乱心か?」

針の穴をラクダが通るためには

このザワザワした弟子たちへ、イエス様はひとことだけ返されました。

針の穴のたとえ
  • 人間の力では救われない
  • 神の力によってのみ救われる

ということです。ほんと、びっくりしましたよね。強烈なメッセージでした。イエス様ったらもう。誇張、ホントにもう。というお話でした。

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