家族が手配してくれた映画や一泊旅行の予定など。「自分は別にいかなくてもいいのに」と、おもったことはありませんか。私はしょっちゅう思っています。楽しいことは我慢して、苦しいことを率先してやる。美徳だと思っていした。
これこそが、
幸せになりたくないブレーキ操作

幸せになりたくない、幸せを遠ざけるブレーキ操作です。
それは別名、不幸になるアクセル。
踏みたくないスイッチのはずですが、なぜか踏んでしまう。
ブレーキとアクセル。
そんかさなやつはおらんじゃろ。
私もそう思っていました。
毎日の日記を読み直してみて、このことに気づいたのでした。
幸せになりたいのに幸せになれない人
幸せになりたいと思ったら必ず幸せになれると思っていました。金持ちになりたければ、必ずなれる。
成功したければ、必ず成功できる。
あきらめない限り。というのが巷で定番になっている思想です。
それだけではないこともよく言われていることです。
それが、「逆にブレーキを踏んでいる人がいる」ということ。
たとえば、
二人の引っ越し業者がソファーを運んでいました
二人の引っ越し業者がソファーを運んでいました……というお話をアムウェイ創業者の一人リッチ・デヴォスさんがいっていました。
二人の引っ越し業者がソファーを運んでいました。そのソファーは大きくて入り口のドアも狭く、そこへの道のりも曲がりくねっていました。それで、
ちょうどドアのところで、このソファーが挟まってしまいました。
ソファーは押しても引いても動かない。
ひとりの引っ越し業者がもうひとりにいいました。
「こりゃーだめだな。あきらめたほうがいい、このソファーを外に出すのは」
そうするともうひとりが、
「ええぇ?おれは、このソファーを中に入れるもんだとばかり思っていたよ」
ただの笑い話だと思っていましたが、
このたとえが何を言いたかったのか、わかりますね。
それは、
アクセルを踏んでいるのにブレーキもかけている自分がいる
アクセルを踏んでいるのにブレーキもかけている自分がいる、ということです。
そして、具体的に自分の感情のどの部分がそうだったのかわかりました。
10日間も感謝の日記を続けていると、気づくこともあるものですね。
幸せアクセルに対するブレーキの例
- 誕生日祝い?いらないいらない。パーティー?やらなくていいよいいよ。
- 「あなたのことが好きになりました」>「ええぇ!自分にはもったいないです、お断りします」(単なる妄想ですが)
- 「カレーとラーメン、どっちにする?」「どっちでもいいよ」
このようなことは、みなさんにもたくさんありますよね。
こんなのはどうでしょうか?
- 思う通りになりそうだったのに、ひねくれてみたり
- うまくいきそうなときに、あえて反対の行動をしてみなったり
- 願った通りに進みそうなときに、自分でぶち壊しそうになったり
- 優しくされたのに、ぶっきらぼうに返してみたり
幸せになりたくないといっているのと同じことです。
なぜ、幸せに対してブレーキを踏むのか?
不安を感じるときに強い行動を起こすらしいのですが、
満たされることに対しても不安を感じることがあるのだそうです。
- 思い通りになってしまうとき
- 愛する相手と大きな幸せに溢れるようなとき
- 深い愛に満たされるとき
こんなときに不安を感じるそうです。
恐れの本質は不安だといいますので、この幸せがどうなるのだろうか?と、考えるとこのまま将来に向かうことに恐れを感じるのでしょう。
聖書から学んだ不幸のアクセルと幸せのブレーキの存在
映画や一泊旅行などの予定。
「自分は別にいかなくてもいいのに」と思ったことがありませんか?
私の場合は、しょっちゅうありました。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)
これからは全部無条件に好きなことは好きと言おうと思います。
自分にはもったいないと思うなら、優しくしてくださったその方に感謝すればいいだけ。
(誰も感謝する相手がいなければ、神様に感謝してみては?)
感謝するにも普段から練習やトレーニングが必要です。
聖書を読んでいると、これも感謝していいのかと、気づいくこともあります。私の場合は涙が流れることがまれにあります。
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
(テモテへの手紙2 3・16~17)
自分の幸福は、周りの人や相手にもわかりやすい方法で表現しましょうね。