洗礼を受ける前の勉強中の方とお話をしました。少し気になったのでこんな質問を投げかけてみました。「聖書でにわかに信じがたいと思ったところはありますか?」もしもあると答えたら、「聖書の言葉通り信じるといいですよ」というつもりでした。でも「うーん、それは確かに大げさな記述だったのかもしれませんね」と答えたのでした。
にわかには信じがたい聖書その1「海の壁」

モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」 出エジプト記14:21-25
洗礼を受ける前の勉強中の方が「にわかに信じがたい」と、いわれたのは、この箇所でした。
それに対して私も「うーん、それは確かに大げさな記述だったのかもしれませんね」と答えたのでした。
そのあと1時間ばかり考えて思ったのは、
「海が壁のようになったという個所が信じられないでよかった、病人が癒されたり、イエス様が復活したという部分は、まだ信じやすいということか」
でした。
この記事で信じがたい記述を特集しようと思ったのですが、この記事で「聖書は全部本当だった」と納得していただくために書いているわけではありません。
にわかには信じがたい聖書その2「イエスの死と復活」
すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。マタイによる福音書 27:51-53
その1で触れましたが、イエスの死と復活の場面です。どうして神殿の垂れ幕が裂けたのでしょうか。
その出来事をどのように解釈されているかがわかれば、信じられるようになります。が、やはり超常現象ではありますね。
「大げさに言っているだけではないか?」そう思ってしまいます。
ちなみにですが、イエス様の死によって、神と人間とを隔てていたものが取り除かれた、という解釈を私は聞いています。
にわかには信じがたい聖書その3「放蕩息子のたとえ」
おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。ルカによる福音書15:32
少し短めに引用しました。放蕩息子のたとえは有名なので、ご存じの方も多いと思います。
どうして、にわかに信じがたいかというと、
「ここまで寛容な父親を見たことがない」から。
(私の父親は、寛容ですよ)
有名なたとえ話ですが、ここのイメージがつかめないとキリスト教を理解しにくいかもしれませんね。
にわかには信じがたい聖書その4「死者のよみがえり」
主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。列王記上17:22-24
死人のよみがえりの箇所ですが、今回の預言者エリヤのほか、その次の預言者エリシャ(列王記下4:32~35)、イエスがナインのやもめの息子を生き返らせる(ルカ7:11-15)、イエスが会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせる(マルコ5:38-42)、イエスがベタニヤのラザロを生き返らせる(ヨハネ11:43-44)、ペテロがタビタを生き返らせる(使徒9:40)、パウロがユテコを生き返らせる(使徒 20:9-12)などがあります。
こんなにたくさんの記述があるので、当たり前のように感じてしまいますが、「ほんとうかよ?」と思わずつぶやいてしまいませんか?
にわかには信じがたい聖書その5「水の上を歩く」
イエスは夜明の四時ごろ、海の上を歩あるいて彼らの方へ行かれた。マタイによる福音書14:25
大学の宗教学の講義で、担当の神父様が「まあ、そこの海が浅かった、ということも考えられる」ようなことをおっしゃられていました。
この神父様の言葉のほうこそ、にわかに信じがたかったのですが、
それを聞いた私は、いやいや、イエス様はほんとうに水の上を歩かれたのだ
と、信じるようになりました。
そういう意図でこの神父様がおっしゃられたのかわかりませんが、いまは、
「水の上を歩く、歩かないは関係ない、イエス様についてそういう記述がある、それを信じるだけだ」
という意味だったのだろうと思います。
にわかには信じがたい聖書その6「食べ物」
すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。列王記上17:6
もう1箇所、近くにある記述なのでついでに。
主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。列王記上17:16
死者のよみがえりのところで登場した預言者エリヤですが、同じ箇所にその子の母親の食べ物がなくなることはなかった、という記述です。
エリヤについて記載されているエピソードは、まだまだ、不思議なことがたくさんありますね。
信じなくても、信じていても、そんなに大した差がないかもしれませんが、信じる人にはそのようになるというのが聖書に書かれている基本原則だと思います。
どうでしょう。聖書に書かれたことを信じますか?信じませんか?
にわかには信じがたい聖書その7「シロアムの池に行って洗いなさい」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。ヨハネによる福音書 9:6
目が見えるようになった奇跡の箇所です。意外なのですが、この箇所は信じられるという方が多いです。
信じられるというほうが不思議に思えますが、私には。
にわかには信じがたい聖書その8「天地創造」
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。創世記1:1-5
日本では多くの人がこの記述を信じがたいといいます。
- 1日が1億年なのではないかとか、
- 恐竜の化石とつじつまがあわないとか、
- 進化論はどうするのだ
ということで。
世界の一部では、聖書の記述こそ正しくて、進化論は作り話だと、信じている方もいます(私自身、進化論が嘘というのはにわかに信じがたいです)。
ところで、量子力学で登場する「シュレーディンガーの猫」論争をご存じでしょうか?
量子の状態はそもそも不確定的ないし確率的であり、事象は重なり合った状態で存在し、それを人間が観測することによって事象が収縮して結果が定まるという
のですが、具体的には、
箱の中に猫を1匹入れ、少量の放射性物質とガイガーカウンター、それで作動される青酸ガスの発生装置が入っています。放射性物質は1時間の内に原子崩壊する可能性が50%であり、もしも原子崩壊した場合は青酸ガスが発生して猫は死ぬ。逆に原子崩壊しなければ毒ガスは発生せず猫が死ぬことはない。「観測者が箱を開けるまでは、猫の生死は決定していない」とされている思考実験
です。
わけのわからない哲学的なことを科学者が論じているように思いました。
高校の物理で教わったのですが、ここで学んだことを聖書と進化論でいうなら
「直接見てきた人はいないから、進化論が正しいか聖書の天地創造が正しいかはわからない」ということかなと思います。
要するに、どちらでもいいでしょ?という投げやりな態度ではありますが、それだったら、聖書をすべて信じてみてもいいかもしれませんよね、強制はしませんが。
ちなみにですが、シュレーディンガーの猫理論は、その後、ヒラリー・パトナムが1965年に「もっとほかの方法で量子力学の世界を広げればいいのだ」と指摘したことで、ネコが生きている、生きていないにかかわらず、量子力学理論を発展させることにつながったとのことです。
要するに、俯瞰してみれば、2者択一ではない新たな結論に至ることができるという意味でしょうかね(ヘーゲルの弁証法に近いかも)
にわかには信じがたい聖書その9「テレポテーション」
ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。使徒8:39-40
この箇所も有名なので、風景が浮かぶ人も多いと思います。
それに、もっと感動するのはペトロが投獄されたときの記述です。
すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使(みつかい)はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った。その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。使徒:12章7-11
キリストを信じる人には、このようなことが起きるのだと感動したのは、中国で迫害されていた家の教会のことが書かれた本を読んだときです。
参考:「天国の人」: 中国河南省・家の教会の「奇跡と感動の物語」
16歳で神からの召命をうけて宣教者となり、迫害の中でキリストの救いと奇跡を宣べ伝えて、公安警察から追われる生活が続く。ついに逮捕されるが、獄中で前代未聞の74日間の断食を決行。これを見た受刑者と刑務官がキリストを救い主として受け入れる。4年間で出獄するが、怯むことなく宣教を続け、二度目(2年間)、三度目の投獄。ここで殺されそうな拷問を受けるなかで奇跡の脱獄。そうして、ドイツへ奇跡の亡命。現在、ブラザー・ユンはエルサレムから始まった福音を、中国からエルサレムまで宣べ伝えていこうという「エルサレムへ帰れ」運動を推進している。中国「家の教会」を生み出した迫害とリバイバルの真実の記録。
彼も同じような体験をされていました。
にわかには信じがたい聖書その10
すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」ダニエル3:25
火の中に投げ込まれたダニエルたち4人のイスラエル人は、そのまま、生きて炉からでてきます。
作り話ではないかと思ってしまいますが、聖書に書かれたことは素直に信じてみましょう。
真実か真実ではないかを別にして、もっと大きなメッセージに気づくと思います。