かみさまがいるってしんじてるのに、あくまがいるの?ってしつもんされたんだ。あくまもいるんだよ。こわいよね。「ひかり」と「かげ」とおなじだって、きいたことあるけど、「かげ」みたいにあまっちょろいものじゃないんだ。あくまはもっと、しぶとい。「ウンコまみれ」にみえるらしいよ。
せいしょにもある、あくま

イエスさまが、でしたちをくんれんしておくりだしたあと。でしたちが、ふたたびかえってきたときにこんなやりとりがあったようです。
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」ルカによる福音書 10:17-20
あくまにかつことは、てんごくになまえがしるされるようなできごとのようだね。
あくまはいます
あくまはいるよ。
みえるヒトには、あくまにとりつかれたヒトが「ウンコまみれ」にみえるらしい(と、カトリックのしさいからききました)。
ウンコまみれ?
あのヒト、ウンコまみれにみえる、ということがあったらしいです。
「でんしゃにのっていたときだけど、まえのせきのヒトがウンコまみれにみえた」
って、いっていました。
このはなしをおしえてくれたヒトは、カトリックのしんぷで、ホントは「あくまばらい」よりも「いやし」や「ゆるし」のほうがとくいらしい。
「いやし」や「ゆるし」のときにも「あくま」がみえるのかもしれないね。
あくまばらい
あくまにかつには、いいしゅうかんをつづけることだ。
このしんぷによると「あくまばらいは、ジブンのちからじゃなくて、かみさまのちからがあってできること」って、いわれてた。
だから、まいにち「おいのり」や「せいしょをよむ」ような、せいかつをつづけている。
「せいしょ」にもかいてあるんだけど、
「どうして、じぶんたちでは、あくまをおいだせなかったんでしょう?」
というしつもんに、こんなこたえがかいてあるんだ。
しかし、このようなものは、いのりとだんじきによらなければ、でていかない(マタイ17・21)
その、とおりのいきかたをされているんだ。
ところで、みなさんは、こんなぎもんがありませんか?
かみさまがいるのに、あくまもいる?
なんで?
かみさまがいるのに、あくまもいるって、へんなはなしだね。
ボクは、「ひかり」と「かげ」のちがいだって、おしえてもらったよ。
「ひかり」があったらかならず「かげ」ができるよね。
だから「かげ」や「やみ」をさけて「ひかり」のほうをあるいたほうがいい。
「ここに、やみがひそんでいるかもしれない」っていうかんじにね。
ここで、さらにぎもん。
ひかりがあれば、かならずかげができる?
かんぜんなひかりなら、かげができないとおもっていたけど
かみさまのひかりにも、かげができるなんて……。
ふしぎなことなんだけど、このはなしもふしぎなので、そういうもんだ、とおもっていただけるかもしれないので、かいてみます。
はたらきありのほうそく
働きアリの法則とは、集団を「よく働く」「普通に働く」「働かない」の3つに分類したときに、割合が「2:6:2」になるという経験則です。人間社会にも応用でき、企業の人事評価や育成手法を考える際に活用されることもあります。「働きアリの法則」より
どんなにりっぱなチームでも、かならず「リーダー」に、はんこうするものが、なん%かはいるという、ようないみです。
かみさまのひかりにできるかげとは?
やみって「ドラッグ」や「たばこ」「おさけ」「ギャンブル」のことです。
ぬけだせなくなるものからは、なるべくはなれていなくちゃいけない。
あくまは、みたことないけど、あくまがそこに、ひそんでいるところはわかっているよ。
あくまとあってみたい?
やめておきましょう。
まんがいち、あくまとめがあったら、めをそらしてにげましょう。
かみさまがいるのに、 あくまもいますか?
「あくま」は、います。
「あくま」をみたことないけど、どこにいるかはわかっています。
そして、ちゅういしていれば、わかるようになります。
「ウンコまみれ」のヒトはみたことないけど、けはいをかんじることはできるっていみ。
それで、じゅうぶんだよね。
それじゃあまたね。バイバイ。