世の中には様々な神様がいらっしゃいます。商売の神様、相撲の神様、野球の神様。私は神様を見たことがないので説明できません(神様と呼ばれている人間を含めて)。神様は「いつも近くにいてインスピレーションを授けてくださる、見えない存在」で、見えないのでいないと思っている人も多い存在かなと思います。
神様とは見えないけど存在するもの

神様は見えないけど存在している
(存在しているか存在していないかは
その人次第かもしれませんが)
そういうものは、ほかにもありますね
たとえば、
- 空気
- 宇宙空間のダークマターと呼ばれているエネルギー
- 気とか幽霊とか霊とか魂
空気についていえば
昔はないと思われていましたが
風で感じることはできました
私も空気と同じように
神様って何だろう?と
思っていました
私が信じていたもの
私が昔、信じていたものは
例えばこのようなものがありました
(幼少時代)
エンピツのキャップ、てんじょうのもよう、おまもり、カガミ(おもいをこめれば、ねがいがかなう)、ポスター、ぶんちん(ざゆうのめいが、かいてある)、スリッパ(おもてがでたら、きょうはいいことある)、にわにあった「まつのき」、カラス(くろいろが、しんぴてきだった)
エンピツのキャップを神様だと思っていると
いいことが起こりました
(※この記事で説明するために使っている単なる個人の感想です)
例えば、
- テストでいい点がとれた
- 体育で大活躍できたり
- 道でお金を拾ったり
当時のこの特別な
(私にとっては当時の神様である)
鉛筆キャップの使い方は
お守りのように肌身離さず持ち歩いていました
この鉛筆キャップは
偶然で起こった良いことを
記憶として蓄積するツールだったのだと思います
大人になるにしたがって
「これは何か違うのではないか?」
と、思うようになりました
それは
日本の神道や土着宗教
シャーマニズムに近いかもしれません
そんなことに気づくようになって
神様はモノではなくなりました
※その後の遍歴も次に書きますが
まだまだモノの域を出ません
神様には感謝や反省も必要か?
そのうちに、
鉛筆キャップはやめて
天井のシミになりました
その次に
学校で履く上履きが
長い間、私にとっての神でした
上履きは、
下駄箱から取り出して
地面に投げてみて
両方表ならいいことがある
上履きが裏になると悪いことが待っている
そのような使い方で
ある種のうらないや
ジンクスに近いものがありました
このころにカトリックの洗礼を受けるのですが
しばらくこの上履きは1日の占いとして残りました
※キリスト教は占いを信じませんし、わたしも今はそのようなことを信じていません
神様との対話
占いもそうですが
他人からのアドバイスや導きがあれば
ありがたい気持ちになれるものです
キリスト教の場合も神様との対話があります
祈りの時に感謝や反省をし、あとから
「あの時のことは、これだったのか」
という、出来事や事件が起こることもあります
いつもそういう出来事を待っていますが
待っている時間はもどかしいものです
神様からの返事を待つ
どうして待たせるのだろう
すぐに結論は出ないものなのか?
いつも思っていました
いつまで待たせるのか?
理由がわかるようになったのはつい最近です
(数十年がたっています)
理由は「神様の時間」があるから
なのと
私には「準備ができていないから」
なのですが
詳細は別記事をご覧ください
富士山
大学生のころ富士山の5合目まで行ったとき
ここはなにかすっきりさせてくれる場所だな
と、感じました
富士山を観光スポット以上のなにかだと
感じていらっしゃる方は多いと思います
富士山に向かって手を合わせる人もいらっしゃいますし
富士山から昇る初日の出を楽しみにされていらっしゃる人もいます
私にとっても富士山はパワースポットでした
が、このころには
パワースポットをすらコントロールしている
神様がいらっしゃるのだと
思うようになっていました
無宗教の人へ
神様(宗教)というと
感謝・反省(懺悔・告白)・お祈り(念仏や無心)
が、基本作業のような気がします
それで
それだったら特定の宗教に入らず
自分で、感謝・反省・黙想をしていればいいのでは
と、思われる方が多いのも理解できます
本当にそれだけで
多くの場合、生活がうまく回るようになります
日記をつけるといいよ、というのと同じですね
「ボクは、とおくのやまをおがんでいるよ」
「わたしのウィスキーは、なんでもしってるよ」
というのも、ありかもしれません
大きな岩やイチョウの大木を拝んでいる人のことを
無宗教の人が「ばかばかしい」といってはいけない
ことはわかりますね
(どれもおなじことだからです)
信教の自由とか、多様性(ダイバーシティ)と呼ばれていたりします
宗教に必要なもう一つのこと
たぶん、コミュニティ(共同体)なのかな
と、思います
自分だけではない
他の人もいる
他の人のことを自分と同じように心配する
ような姿勢を持つことです
近頃はもっと大きなことに気づきました
キリスト教は宗教ではない?
キリスト教は宗教ではないかもしれません
「こうしなさい」「こうするべきだ」
ということはあります(教義)
いちばん大切なことは
神様を愛し、隣人を愛すること
ですが
聖書には
世界がこれからどうなる?
ということも書いてあります
(新聞にも世界で起こっていることが書いてありますが
新聞やニュース解説を宗教とはいわないですよね?
聖書にも教え以外のニュースがたくさん書いてあるのです)
※ 聖書の一部、旧約聖書はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教で同じです
いってみれば
預言が書いてあるのです
神様がいわれるとおりにやってみようと思いませんか?
神様とは?
神様は、いつも近くにいて
インスピレーションを授けてくださる方です
(コーチングみたいですね)
見えないけどいないわけではない
いるけど見えるわけではないです
まるで、空気のような存在ですが
風によって存在を感じることができます
迷信:少年時代に信じていたもの
過去、私は偶像崇拝のようなことをやっていました。
何か違う。
そう思ったら、新しい神様を探すチャンスです。
ありがとうのことばは、本当にしてくださった方に届けたいですからね。