私の母のことですが、質素倹約の昔気質の人間です。私もそのような傾向があるとおもいます。あるとき、質素な生活も反省ものだなと思ったことがあります。それにもまして、もったいないにも落とし穴があると気づきました。この二つ、なにが違うのか、お伝えします。
もったいないとは?

ワンガリ・マータイさん(ケニアの環境保護活動家)が来日して「MOTTAINAI」を世界に広めたのも有名な話ですね。
「もったいない」は、ものを無駄にすることがおしい、という意味があります。
- 無駄にするのがおしい
- ジブンにはおそれおおい
- 不釣り合いである
こんな意味があるようです。たとえば、
- 1回しか使ってないのに、捨もったいない
- もったいないからこの紙を再利用しよう
- 今月は買い物しすぎたから、お金がもったいない
という、つかわれかたをしています。それに対して、
質素とは?
質素は、飾りけがないことといわれています。高いものを買っていても質素な生活になることはあります。
たとえば、質素な身なりというと、飾り気がない服装や装いのことですね。あるいは、生活スタイル。
同じ意味ですが、生活がつつましくて倹約していることも質素といいます。質素に暮らすといいますが、倹約して暮らしているという意味です。
こうやって比べてみると、もったいないと質素は同じ?と思ってしまいますが、それが大きな落とし穴!
質素の落とし穴とは?
私自身が、落とし穴に落ちて初めて気づいたのですが、質素をやりすぎると、体を壊します。
それから、お金のことが頭から離れなくなってしまい、神様のことを中心に考えられなくなります。
質素だからといって油断できないです。
それ以上に、もったいないも危ないです。
もったいないの落とし穴とは?
たとえば、私の年老いた母ですが(※悪い例に母を出してごめんなさい、私自身もそういうところがあるので、母ではなくワタシといいかえてもよかったかもしれません)、
- 高いお刺身が残った「もったいないので、食べて!」
- せっかく買った服だけど、誰も着ない「もったいないので、着て!」
- スーパーで柿が日付間近で値引き販売されていた「もったいないので、買ってきた!」
「もったいないのなら買ってこなければいいのに!」みたいな、批判めいた考えが私の母に向かってでそうになります。
(母も私も、いい年なので、そのことばは飲み込みましたが)
つまり、
なんでもかんでも、「もったいない」を理由に購入してしまうことがあるというのが、もったいないの落とし穴だと思っています。
さらにいえば、もったいないのでジブンの支配下に置きたくなる、というのが落とし穴なのです。
もうひとつ、
惜しい(おしい)
と、言い換えることもあります。
捨てるのは惜しい。だから、
- 誰かにあげてしまおう
- 食べてしまおう
- 片付けてしまおう
のような使い方です。
先日、こんなことがありました。
昨日淹れたコーヒーがたくさん余ってしまった。捨てるのはもったいない。
近所のお友達に電話で「昨日のコーヒーがたくさん残っているけど、捨てるのは惜しい、飲まれますか?」と話してました。
バイキング形式先日、社員旅行で温泉旅館へ行ったのですが、夕食も朝食もバイキング形式(正式にはビュッフェスタイルというそうです)でした。
ようするに、食べ放題。
夕食のとき、ステーキやアイスクリームや湯葉とかありました。私は大好物のカレーライス。大皿に3杯も食べてしまいました。
カレーを3杯も食べて言うのもどうかと思いますが、他のごちそうを食べなかったので「もったいない」と思いました。
朝食もカレーライスにしたのですが、ヨーグルトやフルーツをたくさん食べている同僚からも「もったいない」といわれました(ほっといて!)。
腹八分に医者いらず。
こういう言葉がありますが、バイキング形式の食事にはもったいないという言葉のほうが優先される私でした。
これが、もったいないの落とし穴です。
聖書にも「もったいない」とはいわないが
このお話はよくご存じだと思います。引用します。
イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが200デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「5つあります。それに魚が2ひき」と言った。マルコ福音書6章34~38節
もったいないとはいっていませんが、まるで「もったいない」と弟子たちが言っているような書かれ方ですよね。
ジブンは質素でいいけど、他人には最高のものを
もったいないが口癖の私の母が、ケチだというつもりはありません。
ほんとうに質素倹約が戦争中から染みついているのだと思います。
ジブンも質素だけど、家族も質素、近所の人も質素、世界も質素
そういう、価値観があるのかもしれません。
そんなもったいない母ですが、
母のプレゼントは最高級で、高いものを惜しげもなく贈ります。
献金だって実は桁違いなのですが、彼女の信仰のことなので、これ以上、すごいとかひどいとか、公に批評することは避けます(一応、母の名誉のためにひとこと書いておきました)。
今日もお歳暮の話をしたのですが、私のほうが「そんな高いもの贈ったら贈られた人が困るのではないですか?」と、申し上げた次第です。
そんなことを考えていると、
プレゼントはお金が一番?
という、別の疑問が私の頭をよぎります。
ですが、この疑問は即、撤回。
妻の母(私の義母ですね)がいっていたのですが「お金で解決しようとしている気がしていやだった」
これは、私が結婚する前に妻の母に、お礼で商品券を持って行った時のことでした。
お金は、大切なものですが、露骨すぎるのかもしれません。
だけど、もらって一番うれしいのはお金かも?と、今でも思っています(これも、間違いのもとだとは思っていますが、考え方はいまでも変えられませんね)。
聖書に書かれている質素ともったいないという感覚はちがう
もったいないは、現状を生かすために努力するための原動力です。質素は、身を低くした状態を表す言葉です。
もったいないが行き過ぎると、質素とはかけ離れた生活になることがあります。
なんでもかんでも、もったいないという言葉を使っていると、落とし穴にはまることがあります。