神様は見えない存在です。洋の東西を問わず、どこでもそう思われてきました。神様が見えてしまうと、神様側では何か弊害があるのでしょうか?今回は、そんなことを追求していきたいと思います。
どうして神様は見えないのですか?

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。ローマの信徒への手紙 1:20
神が見えない理由を探していると、聖書に上のような記述がありました。
ここで紹介している神が見えない理由は、見える神(偶像)と区別するため、見えないようです。
この見えない神の本質は、神がおつくりになられた被造物をみればわかるはず、と、ここには書かれています。
とはいっても、この一節、意味が分かりにくいので解説します。
偶像崇拝はデリカシーがないひとのすること
文末の「彼らには弁解の余地がありません」の部分でいう、彼らは誰のことでしょうか?
次に続く文章に答えがありました。
「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」人たちのことを指しています。
その人たちが何をしたかというと、聖書はさらに続けて、
「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」とあります。
どうやら偶像崇拝(人間が作った神を崇拝すること)をした人たちのことをいっているようです。
偶像崇拝は見えない神の代わりに見える神を造って拝むこと
要するに、偶像崇拝は本来見えない神を「見える化」することです。
このとき、聖書に登場する神「わたしはある」「御父」を「見える化」すると、私の想像する神は、
- ひげが長い70代80代くらいのひと
- 白髪頭、てっぺんがはげている、10cm上に光の輪がある
- 白い衣を着て、つえを持っていて
- 太陽を背に雲の上に立っている
のようになります(※個人的なイメージですが、まるで仙人ですね)。
これで、納得する人がいらっしゃるかもしれませんが、本当の神様からしたら、
「わしは、こんなのではないぞ~」
と、叱られるに違いありません。
なにしろ、神様の能力や可能性をすべて、台無しにしているかもしれないイメージですから。
それにもまして、まだ悪いことに、聖書に出てくる偶像崇拝は、金で造った動物(牛とかネズミとか蛇とか)を神のかわりにあがめることです。
牛とかネズミを神様の代わりに神様以上にあがめたとしたら、本当の神様はきっといやだと思います。
偶像崇拝のむなしさ
知恵の書に偶像を拝むことのむなしさが書いてありました。この1節、
航海に出て荒波を越え行こうとする人は、 自分を運ぶ船よりももろい船首の木の像に助けを求める。知恵の書 14:1
さすが、知恵の書です(ソロモンの知恵と呼ばれている書物ですが、聖書外典なのでプロテスタント教会では聖書に含めていないそうです)。
航海が無事に成功するかどうか、一番大切なのは、船の性能ですよね?という意味です。
ドーナツの穴議論
ちょっと話はそれますが、ドーナツの穴はあるのか、ないのか、という議論があります。
※このドーナツの穴議論は、私の趣味、電子工作で使うマイコンボードのArduinoを解説していたネット記事で見つけました。ツール・ラボ
ドーナツには穴がありますが(ミスドでは穴のないドーナツも見かけるようになりました、あんドーナツにも穴がないですね)、「ドーナツの穴だけ持ってきてください」といわれたら、その「ドーナツの穴だけ」をどうやって持っていけばいいのか、とんちのような知恵が必要になります。
このドーナツの穴議論が、神は見える見えないの議論に役立つか?と考えてみましたが、神様をドーナツの穴を結びつけることはできませんでした。
(※とんちでもこじつけることができた人はぜひコメント欄で教えてください)
ドーナツの穴は、ドーナツがあっての「穴」です。
被造物を見ればその作者のこともおのずと知れる、という聖書の一節(上述)を現わしている例かもしれません。
十字架や聖母像は偶像崇拝ではないか?
ところで、身に着けているクロス(十字架)や、十字架にはりつけになったイエスキリスト像、自宅に飾ってある聖母マリア像、カトリック教会によくある「聖家族像(聖ヨセフと聖母マリアと小さなイエス様の像)」は、偶像崇拝になるのではないでしょうか?
そうかもしれません。
「人間によって造られた像が、夜な夜な動き出して、問題を解決してくれる」と思っていれば、偶像崇拝です。
そうではなくて、イエス様や聖母マリア様、聖ヨセフがどのような生涯をおくられたか、思い起こすためなら、偶像崇拝ではありません。
(※プロテスタントや東方教会では厳格に人物像や人物の絵画を飾らないようにされているそうです)
神様が見えないホントの理由とは?
神様が見えないホントの理由は、偶像崇拝と区別するためでした。
神様を見ることはできませんが、神様の造られた人間や動物、自然や宇宙をみれば神様を知ることができます。