教会学校のリーダーといえば教会学校の先生。学校でリーダーといえばグループの班長さん。工場でリーダーといえば作業のまとめ役。オフィスのリーダーは社長。人生のリーダーは私。みんなに共通しているのは、リーダーはほかのひとを引っ張っていく存在です。
神様は見えない

この本(↓アマゾンの引用)のことを知って、なんだか信仰についても同じことが言えるんだなぁと思ったので紹介させていただきます。
社長になろうと思って社長になった人はいても、リーダーになろうと思ってリーダーになった人はいない。
リーダーは自らの行動の中で、結果としてリーダーになる。はじめからフォロワーがいるわけではなく、「結果としてリーダーになる」プロセスにおいて、フォロワーが現れる。
リーダーシップは、本を読んで修得するものでも、だれかから教わるものでもない。それは私たち一人一人が、自分の生き方の中に発見するものだ。
リーダーシップはだれの前にも広がっている。何かを見たいという気持ちがあれば、可能性は無限に膨らむ。自らが選択し行動することで、人は結果としてリーダーと呼ばれるのだ。リーダーシップの旅 見えないものを見る (光文社新書) 新書 – 2007/2/16 野田 智義 (著), 金井 壽宏 (著)
以前、私がいた会社は中小企業(※謙遜していいますが、中企業ではなく小企業のほうです)でした。そこで私はリーダーでもなく社長でも部長でもありませんでした。昇進しなかった人事の不公平を今回ひがみったらしく伝えたいのではありません。
営業の仕事をしていたのですが、ある日気づいたのです。顧客が次にどういう行動をとるか、予知できるようになっていた自分を。もちろん、外れることも多かったですが。
どうしてほかのひとにはわからないのだろう?
そんな疑問がありました(※私は謙虚にならなくてはいけません、自分ができることを自慢してはいけませんね、ほかのひとができないことで優越感を感じていたかもしれません)。
ほかのひとには気づかないことでも、私にはわかるようになっていました。
取引先の担当者が、次に何を言ってくるか、落語のように首を右に向けたり左に向けたりしながら、私は同僚に話して聞かせていました。
(今から思えば、そのあとその通りに事が運んだかはわかりません。同僚からフィードバックをうけていないので。予知できていたとしたら、私は本当に鼻高々だったことでしょう)
こうすることで、同僚にとって顧客を訪問する前のシミュレーション(ロープレ)になっていたと確信しています。
この経験から今回は「見えないものを見る」ことが、どれだけ大変なことなのか伝えたいのですが、その前に前提条件もお伝えしなくてはなりません。
それは、「リーダーってなんだ?」ということです。ここからは、逆説的な方法で「リーダーってなんだろう?」をあぶりだしていきたいと思います。
リーダーとはほかのリーダーをつぶすことではない
会社や学校でリーダーになるとこういうことがよくおこります。組織が未熟だからです。組織が未熟なのもリーダーの責任ですが、当のリーダーを含めて組織やチームのメンバー全員がそのことに気づいていないです。
競争社会、競争を前提とした組織だと、このようになりやすいのかもしれません。チームが協力して、社会を成長させるというもう一つ上の目標があるとうまくいきます。
リーダーシップとはほかのひとのリーダーシップをつぶすことでもない
これも、たまに見かけます(現在進行中の案件を目のあたりにしていたりします、私)。
たとえを出したいのですが、それだと直接的すぎて気づく人もいらっしゃるかもしれないので、抽象的な書き方をします。
- 文句や質問をたらたらとする(「正論をいう」も含まれる)
- 自分の担当なのに上司や会社が何もしてくれないからと言い訳する
- 陰口をたたく
逆説的にあぶり出してみますね。リーダーになると、このような目にあいます。だから一歩控えて、リーダーにはならず、後からついてくる人も多いです。
リーダーは自分がまず一歩を踏みだすこと
一歩踏み出すとは、責任をとることです。一歩踏み出してみると、気づけなかった環境に気が付きます(いい意味でも悪い意味でも)。
せっかく自分で志願した道なら、自分のペースで楽しく歩むといいです。そうすると、
そのあとについてくる人がいるかもしれない
楽しくしていると、人が集まってきます。楽しくない仕事は、誰もやりたがりません。
私の場合、わざと難しそうに仕事したり、「あー、どうしよう」とか困ったふりをすることがあります。なぜかというと、その仕事を自分だけでやりたいから(他人に邪魔されたくないから)。
ここは、そうです、3つの意味で反省しないといけないですね。
- 自分にしかできないというおごりがある
- 他人を排除しようとしている
- 種をまいていないのに収穫しようとしている
※上記は、他人と上手にコミュニケーションとれない私自身の問題点です。
こんな反省をしながら、もしも、将来リーダーの後についてくる人が現れたとしたら……、
だんだん人が増えて組織が動くようになるかもしれない
身近で起こっている問題でも同じことなのですが、気がついたら気が付いた人が率先して行動する組織になればいいと思っています。そのためには、まず自分自身が一歩を踏み出すことが必要なのかなと思います。
だれでもまず一歩を踏み出した経験があると思います。それには特別な才能は必要ないです。才能ではなくて、一歩を踏み出すには勇気が必要とよくいいますね。が、必要なのは勇気でもないです。
一歩を踏み出すには準備が必要です。準備ができているかが、リーダーに求められる最も大切なことです。
- 優先的に取り組むとがわかっている
- ゴールがどこなのか、あるべき姿が何なのか、わかっている
- 始めるための時間がある
私的には、3番目の時間を作ることが一番大切ではないかと思います。
時間管理のマトリックスを学んだとき、これはただのマーケティングの1手法でしかないと思っていました。『緊急度』と『重要度』で四つの領域にわけ、右上の領域にある「緊急ではない」「重要なこと」にフォーカスしなさいというアレです。
緊急ばかりやっていると、重要なことが何かわからなくなります。それなので、大切なのは「始めるための時間がある」「始めるための時間を作る」ことかな、と思います。
キリストの世界観はリーダーシップ
リーダーシップの概念はキリスト教的だと思います。イスラムでも仏教でもありません。神道でも儒教でもないです。それらは、協調や協力、もっといえば迎合することを大切にしているからです。
少なくとも、あなたの人生のリーダーシップはあなた自身が持つべきです。そうすると、あなたの身の回りで見えなかったものが見えるようになります。
リーダーも信仰と同じ、見えないものが見えるようになる
社長になろうと思って社長になった人がいらっしゃっても、リーダーになろうと思ってリーダーになった人はいません。同じように神様を見たいと思って神様が見えるようになった人はいません。
リーダーは自らの行動の中で、結果としてリーダーになります。はじめからフォロワーがいるわけではなく、「結果として」フォロワーが現れて気づいたらリーダーになっています。神様が見える人も同じです。神様とは何か、理解したいと常に願っている人が、人生を通して神様が見える(あるいは理解できる)ようになります。
リーダーシップは本を読んでわかることでも、だれかに教わってリーダーのように行動することでもありません。リーダーシップは自分の生き方の中で発見した課題に取り組む姿勢そのものだからです。
リーダーシップはだれの前にも広がっています。リーダーシップの発揮とは、熱意をもって行動することです。その結果、そのひともリーダーと呼ばれるようになります。
神様についても、同じことです。