使徒信条をカトリック教会のミサでは必ず唱えます。ネットで調べてみると、聖公会やプロテスタントでは文語体になっているようです。毎回唱えないキリスト教会もあるようでびっくりしました。ミサのときに毎回唱えることが大切なのではありません。私自身、心底信じているか考えてみました。
使徒信条

天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。「使徒信条2004年2月18日/日本カトリック司教協議会認可(カトリック中央協議会)」
この使徒信条の中で信じられない、と思われるところはありませんか?たとえば、私もにわかに信じにくかった箇所、
主は聖霊によってやどり
マリア様から生まれた長男がイエス様。そうかもしれない。いや、そうでないかもしれない。百歩譲って、そうであったとしても、「聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」は信じるわけにいかない。まったく科学的ではない。
そう考えるのも無理はないですか?
科学は世界の基盤ですから。でも科学で解決できないこともありましたよ。たとえば、
手に持った紙がどこに落下するか?
のような身近な問題。どうでもいいから計算しないだけと思ってしまいます。ところが、どうでもよくない人命にかかわる問題でもスーパーコンピューターを使ってわからないことがあります。それは、
大地震がいつ起こるか
とか、台風がどちらに反れるか?とか、線状降水帯がどこに発生するか?(どのあたりに発生するかは分かったとしても)。
私は、宇宙やミクロの世界に興味がありますが、
- 相対性理論で登場する時間のゆがみ
- ブラックホールの内側
- 素粒子
など、いくら教えてもらっても理解できません。科学的には存在すると断言されていても、私には一生かかっても理解できないのかも。
こういうときは、どうするのがいいかご存じでしょうか?
理屈はともかく、いったん信じてみるといいそうです。
陰府(よみ)に下り
そもそも死後の世界はあるのでしょうか?世の中の半分以上の方は「死後の世界はない」「ゆうれいもいない」「宇宙人も信じない」といわれることでしょう。
ところで、基本単語の
陰府とは
日本語ではふつう、陰府を(いんぷ)と読むそうです。使徒信条では「よみ」と唱えています。
陰府(いんぷ)とは、死後に生前の罪業によって刑苦を受ける世界、地獄、冥府(めいふ)を意味するそうですが、これは仏教的な出展からの解説かもしれません。
聖書にも陰府(よみ)が登場します
愛する息子ヨセフが野獣に食い殺されてしまったと思った父ヤコブが嘆き悲しむ場面で、「わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう」といいました。
父はこれを見さだめて言った、「わが子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」。そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。(創世記37:33-35)
とあります。これだからキリスト教にも陰府がある、といっているわけではないです。土着の宗教観から出てきた概念かもしれませんから。
私は、これ以上、陰府(よみ)については調べていません。陰府についての論文がどこかにあるかもしれませんが、それを読んだからといって理解できないと思います。こういう時はどうするかというと、
理屈はともかく、いったん信じてみる
しかないですね。自分で見てきたわけではないので。
三日目に死者のうちから復活し
ここでしょうね。一般的に信じられないといわれているのは。
死者がよみがえる?
ありえない。何かの拍子に、心臓が動き出しただけじゃないか、病院や火葬場でもそういうことあると聞くし。
いやいや、それよりも
そもそも死んでなかったのかもよ?
そんな、想像をしたくなります。死んだふりをしていただけで、墓から逃走して、シルクロードをたどって日本の青森県にやってきた(キリストの墓がありますよね、青森県に)。とか。
※追記:新郷村のホームページに記事がありました。秋田県だと思っていましたが青森県だったので、上記「青森県」に変更しました。くわしくはこちら
「ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡っていた」そんな突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇太神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のことです。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見しました。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書でとりあげられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目をあびるようになりました。
ところで、キリストが死んだことを信じていないかたは、
- 生き返ったことが信じられないのか
- 死んだことを信じていないのか
どちらなのでしょう?
キリストの復活を信じていない
その根拠はありますか?
聖書には復活したと書いてあります。作り話かもしれません。
だれもはっきりと「死んだ」「生き返った」と断言しにくいです。
ので、「信じられない」なら、いったん信じてみてください。それで「矛盾があるかないかを吟味して」少しずつ信じてもいいかもしれません。
天に昇って
天国はあるのでしょうか?ないという人もいるし、あると信じている人もいます。死後の臨死体験したり、昏睡状態から覚めた人が「お花畑のようなところだった」とか「あなたはまだこっちに来てはいけない」といわれたという話も聞きます。
こういう経験談があれば「天国はあるのかもしれないな」と、信じれるかもしれません。
なかには「あれはただの夢だったんだろうね」と、思う人もあるかもしれません。
経験した人が経験談を話していても信じる人は信じるし、信じない人は信じないものです。
こういうとき一番大切なのは「素直になってみる」といいかもしれません。「だまされたと思って、いったん信じてみる」
全能の父である神の右の座に着き
なんで右なの?椅子があるの?神様は全能なのはわかるけど、そもそも神様はいないと思う……。
この箇所も、信じる人は信じているし、信じない人はいつまでたっても信じられないと思います。
- 神様を見ることがない
- 身の回りで起こっていることはすべて自然法則
- 人間は進化を通して今の形になった
こう思っていると、そもそも神様を信じることは難しいでしょうね。私もそうでした。
私が洗礼を受けたのは中学2年生の時ですが、そのころの日記にこう書いていました。
キリストを信じるとはばくちのようなものだ
「なにもいわずに、神様が存在すると信じてください」といわれたわけではないのです。思春期だったこともあって、クラスメイトたちが理解できないといっていた神様に「かけてみた」だけです。
そのときに、友達からこんな質問をうけました。
信じたら何かいいことあるのか?
信じたらいいこと?あります、あります。ですが、当時の私は、なにもわかっていませんでした。「クリスチャンってかっこいいかも」くらいのご利益を願っていました。それから何十年もたって、社会のことがわかるようになって気づいたことがあります。
神様を信じることで、たとえば、
- 偶然起こった出来事に感謝できるようになる
- ミッションスクールってキリストの学校です
- 人生に意味を感じることができる
のようなことです。私はそういうことか、と、理解していても、そもそも神様を信じていない人からは、
それは、ひとそれぞれでしょ?
といわれることも多かったです。感謝したり、いい学校か悪い学校か、人生に意味を感じることができるか、それは人それぞれでしょ?という意味です。
このようにいわれると、私のような根無し草信者は「信じたほうがいいですよ」といえなくなります。
なぜかというと、説明するのが面倒なので。
いまでも、せいぜい、「いったん信じてみて」というのが精一杯です(ごめんなさい)。
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます
生きている人と死人を裁く?えんまさまは死者を裁くと聞いたことありますが、生きた人を裁くのは裁判官では?
神様を信じていない人に、ここから先を説明するのはすごくめんどくさいことなのです(※私にとって、個人的感想です)。でも、
使徒信条のこの箇所は、キリスト(教)の肝(キモ)になっている部分だと最近になって気づきました。私自身最近まで口先で「信じます」といっていただけです。
この箇所は、
- 世の終わりが来ます、そのとき
- キリストが再び来ると信じていないひとは裁かれます
- 世の終わりがどうなっているか、聖書に預言されていますよ
という意味だったのです。
聖書預言については、ほかの方がたくさん解説されています。別記事でその紹介をいたします。
聖霊を信じ
精霊と聖霊はちがいます(まず、漢字もちがう)。
精霊は「水の精霊」とか「木の霊」とかいうときに使うような気がしています。聖書にでてくるのは聖霊ですが、私は精霊も聖霊もみたことないので説明しろといわれると難しいです。
(感覚的には、精霊はいろんなところにありそうな気がしますが、精霊は信じて聖霊は信じないというのでは、なにか判断基準が不公平なのでは?と、疑問に感じます)
みなさんは、物事を説明するときに、どのように説明されると納得しますか?
- 体験談・口コミ
見てきたこと、体験したことを伝える - 帰納法
最初が正しくて、すべての項目で隣どうしが正しければすべて正しいという説明の仕方 - 三段論法
こうだから、ああなって、そうなる - 背理法
うそであるとすると、すでに正しいと証明されていることと矛盾が生じる
神様や聖霊を解説するときに、これらの方法が全然使えないのはなぜでしょう?
人間の感情が作り出した幻想だから
でしょうか?
開き直っていいますが、私には神様を証明することも解説することもできません。
神様が偉大だから?
そうかもしれません。
そもそも、
神様はどうして姿を見せてくださらないのでしょうか?
見たら信じるのに……。世の中には実際に見たのに嘘だったということもたくさんあります。
- マジック
- 詐欺
- イリュージョン
ですね。
- 「見えないから神様はいない」という結論はうそです
- 「神様が見えない理由がわからない」から神様はいないというのも間違いです
日本人のような「こんなところに美があった」「わびさびとはなんて美しいものだろう」という感性があれば、ひょっとしたら「こんなところに神様がいらしたんだ」と感じられるかもしれません。
それが聖霊?私にはわかりません。ですが、聖霊の存在も神様と一緒に信じてみました。
聖なる普遍の教会
これもよくわからないのですが、現在の私が信じていることをお伝えします。
「教会」とはキリストを信じる人の共同体のことです。キリストを信じる共同体に属していてほしい、と神様が私たちに願っているのかなと私は思いました。普遍というのは永遠に続くということですね。
普遍ではないものもあって、反キリストと呼ばれています。反キリストとは、悪魔のことです。
悪魔がキリストへ戦争を仕掛けているので、みんなは反キリストチームへ加担しないでほしい、と神様が願っている。
「聖なる普遍の教会を信じる」とは、キリストの共同体を私たちもしっかり支えること。そして、間違えても反キリストに加担しないよう気を付けることだと理解しています。
ところでこの、
反キリストに資する行動とはなにか?
反キリストは悪魔だから悪を行うことかもしれません。
聖書には、
世の終わりに「私がキリストだ」とか偽預言者が現れると書いてあります。
「キリストよりも偉いもの、尊いものがある」といいふらす人やモノや思想のことかもしれません。
私たちは、キリストの再臨を信じるだけで救われるのですが、それすら妨害するものが、私の身の回りにもウジャウジャあります。
聖徒の交わり
これがなにを意味するのか、よくわからずに使徒信条を唱えていました。聖徒の交わりとはクリスチャンの条件のことです。
いろんなクリスチャンがいらっしゃいます。その人もたちで構成されるクリスチャン共同体を教会といいます。共同体内での交わりには構成するメンバー全員に共通点が必要です。それは、
復活したイエス・キリストが今でも私たちと一緒にいて下さっていると信じている
と信じていることです。
クリスチャンの共同体である教会活動を通して、クリスチャンは成長していきます。
罪のゆるし
これは、わかりやすいですね。罪は許してもらえる。
カトリックでは告解(こっかい)を通して罪を許していただきます。告解のまえに罪を思い出しているとき、こんなことを考えます。
そもそも罪とは何か?
この答え、最近わかったのですが、罪は「神様から離れること」らしいのです。たとえば、
- 他人に迷惑をかけたり嫌がらせをする、ことだけではなく
- 神様は「そこらじゅうにたくさんいる」と思っていたり(神道のような考えかた)
- お金や科学・自然の造形を神として尊むこと
- 神様はいないと思うこと
です。簡単そうで、難しいです。なぜ難しいかというと、たとえばお金についていえば、どれだけ思い入れするかは自分自身の主観で比較するしかないからです。
お金への思いをゼロにするのは難しいでしょうから、お金のことを5%思っていたら罪になるのか?神様のことを30%忘れたら罪になるのか。
私自身、「貧しい暮らしをしてみよう」と思って始めた今の生活ですが、貧しい暮らしを続けると、貧しいなりに落とし穴がありました。
いま、お金のことばかり考えている自分が出来上がっていたのです。
告解前のお説教で「どこから転落したのか、見定めなさい」といわれました。
からだの復活
死んだあと復活するのか?信じられないですよね。聖書には書いてあります。
でも、ほんとうに、この
聖書はそもそも信じられるのか?
そんな疑問がありませんか(※私はそう思っていました)?
- 進化論と矛盾しているし
- 宇宙の誕生とも違う
- たとえて書いてある部分が多いのではないか?
「聖書に書かれている預言はことごとく実現してきた」そうです(聖書預言と呼ばれています)。聖書預言は、聖書に書かれた内容を信じるためにあるといわれています。
私は、聖書に書かれている出来事が本当に起こったこととして読んでみると、(神様の慈しみを感じて)涙が落ちることがあります。
聖書の言葉からとったゴスペルソングも、聞いていて涙が流れることがあります(※涙もろくなっただけかも)。
そんな体験をするには聖書に書かれていることはすべて本当だと信じる必要があります。
永遠のいのち
永遠のいのち。そんなものがあったら、人類の歴史分、天国で魂がいっぱいになってしまうのではないか?と私も思っていました。
でも何でもできる神様です。天国で魂がギュウギュウ詰めになることはありません。天国の住環境を私が心配しなくても大丈夫なのです。
それより、天国にいけるかどうか心配したほうがいいです。
キリストを信じるとは?使徒信条を私なりに解説
ミサのときに使徒信条を唱えることが大切なのではないです。心底キリストを信じているか、私自身のことを考えてみました。私がキリストを信じたのは、「まず、信じてみる」からでした。ばくちのように人生をキリストにかけてみる。船に乗ってみると、その船がいいのかどうか、見えてくることでしょう。