ニホンで「せいじ」「しゅうきょう」のはなしは、ごはっとだ。かいがいでは「かみさま」のはなしをふつうにしている。とくに、きになるのは「かみさまをしんじていない」って、むねをはっていうニホンジンがおおいこと。「あなたたち、しょうきなの?」って、おもわれてるかもしれないのに。
「しゅうきょう」は「ごはっと」?

にほんでは、「しゅうきょう」が「ごはっと」のところがおおい。
なにをかくそう、わたしのしょくばでもそうだ。
(もちろん、いぜんのしょくばでもそうだったし)。
ほんとうのところをいうと、
「かみさまをひていする」いみは、「100がいあって1りなし」だ。
「むしゅきょう」っていっておくと、それいじょうココロにふみこまれないですんでいた。
しかし、かみさまをしんじているヒトたちからは「かみさまをたよらないなんて、なんてごうまんなんだ」とおもわれることにつながっている。
どうしてニホンは「むしゅうきょう」なのか?
「むしゅうきょう」でも「ざぜん」がスキなひとはおおい。
えきまえで「かみをしんじなさい」「しんじるものはすくわれる」って、スピーカーからきこえてくるよね。
「せいしょをおくばりしています」って、いうのもある。
みんなにとって「キリストをしんじていますか」っていうのは、おしうりだったんだろうか。
だからといって、たとえば、キリストきょうのかみさまがキライなわけじゃなくて、
- ミッションスクールは、ばいりつがたかい
- アクセサリーもクロスは、にんき
- バレンタインデー
だ。
キリストきょうのがっこう(ミッションスクール)は、ゆうめいながっこうがおおいね。
もちろん「にゅうし」の「ばいりつ」もたかいのはごぞんじのとおり。
ホントはニホンジンも、しゅうきょうに「むかんしん」ってわけでもない。
クリスマスだって、バレンタインデーだって、おいわいしている。
キリストきょうに、はんぱつしているわけじゃないんだ。
それは、ちいきのじんじゃやおまつりにもあらわれている。
おまつりは、とくべつあつかい?
おまつりがあるから、二ホンはいいんだよね。
そんなこえがきかれる。
ちょうないかいのおまつりで「おみこし」をかついでまわることもあるよね。
これは「しゅうきょうぎょうじ」だけど、しっかり、ちいきにねざしている。
かみさまをしんじていなくてもて、あんなバカげたことはできる(失礼!ごめんなさい)。
そうかといって、かみさまを「ひてい」しているわけでもない。
しやくしょだって、けいさつだって、「おまつり」にはきょうりょくしてくれてるしね。
ということは、やっぱり、
しゅうきょうをおしうりされたからキライ
しゅうきょうをおしうりされたからキライになっただけなのかもしれない。
オウムしんりきょう、とか、しんこうしゅうきょうで、いちどはいったら、でてこれない「しゅうきょう」もあったし、おふせがひつようなしゅうきょうもあったし。
いかがわしいのもあったし、しょうばいがさかんなしゅうきょうもあった。
それで、しゅうきょうをキライになったんだとおもう。
だけど、しゅうきょうをキライになったことで、たいせつなものをうしなったんだともおもう。
それは、かいがいでは「アイデンティティ」ってよばれているぶぶんだ。
アイデンティティをうしなったのかもしれない、われわれ
ヒトによっては「しんじてないなんて、しんじられない」というような、アンチテーゼのようないわれかたをすることがある。
「てんのう」をかみさまとしてあがめなくなったのがわるい、とはいわない。
(1945までのアイデンティティはコレだったのかもしれないけど)
たとえば、こんなはつげん。
- 「かみさまをしんじていない」 → ジブンの「かちかん」をせつめいできなくなっている → 「ニホンジンは、しんようできない」というこえ。
- 「しぜんのなかにかみさまがいる」 → 2000ねんまえのしゅうきょうだとおもわれている(げんだいのしゅうきょうは、かがくてきにけんきゅうされつづけているからね) → 「ようちなかんがえかたのニホンジン」
というふうに、おもわれているらしい。
ニホンでしゅうきょうをこばむわけはなぜか?
マスクをしてると、ひょうじょうがわからないのとよくにている。
しんじてはいるけど、いけんひょうめいしていないだけかもしれない。
「かみさまをこばむ」わけは、「100がいあって1りなし」だ。
いままでは「むしゅきょう」っていっておくと、それいじょうココロにふみこまれないですんでいた。
だけど、いまは、かみさまをしんじているヒトたちから「かみさまをたよらないなんて、なんてごうまんなんだ」とおもわれはじめている。
「しゅうきょう」と「かみさま」は、ジンルイどうしのコミュニケーションもんだいでもある。とおもう。