たくさんの「しゅきょう」にいろんなかみさまがいるけど、どうしてなんだろう。1つにすると「せんそう」や「にくしみ」がうまれたからじゃないかな。「たにんをたいせつにする」「ものにおぼれない」「ころさない、ぬすまない」はどこでもいっしょ。それに、ダイバーシティもひつようなんだとおもう。
かみさまがたくさん?

ニホンにも「キリストきょう」「イスラムきょう」「ユダヤきょう」「ぶっきょう」「ヒンズーきょう」「しんとう」
たくさんある。
かみさまが、1つだとこまるわけ?
このかみさま、どれか、1つのかみさまをおがみなさいって、いわれたら、なにがおこるとおもう?
だい2じせかいたいせんみたいなことが、おこるんじゃないかな。
おそうしきだって「おてらがいい」「きょうかいがいい」って、もめるでしょ。
もめないようにするには、おたがいがまんをまなばないといけないんだ。
それがダイバーシティ(たようせい)なんだけど。
もともと、おなじかみさま?
とかして、まぜたら、ぜんぶいっしょだったりして?
だから、たくさん、かみさまができたんじゃないかなって、おもっているんだけど、
もともと、ぜんぶ、おなじかみさまだったのかもしれない。
そういえば、ユダヤきょうから、キリストきょうと、イスラムきょうがうまれたし。
キリストきょうが、ぶんかいして「ギリシャせいきょう」とか「ロシアせいきょう」に「カトリック」「プロテスタント」なんかができたんだ。
それに「プロテスタント」って、ひとくくりにしてるけど、これがまた、たくさんある。
ぶっきょうも?
ぶっきょうは、かみさまじゃなくて、ほとけさまなんだけど、これはかみさまじゃなくて「いじん」「ひと」なのかもしれない。
仏教では、自然に存在するあらゆるものが信仰対象となるため、唯一神は存在しません。仏教の信仰対象は仏陀で、これは仏教の開祖である釈迦如来を指す言葉です。
みんな、きょうだい?
ところで、シルクロードをとおって、ちゅうごくにもキリストきょうが、つたわってる。
「けいきょう(景教)」っていうのをしってるかな?
とう(唐)のじだいなんだ。
おなじじきに「かいきょう(回教)」っていうイスラムきょうもつたわってるんだよ。
キリストも、ぶっきょうにも、えいきょうしているはずだ。
ニホンのしんとうも?
イスラエルの「しんでん」と
じんじゃの「ホンドウ」
それから、しんとう(神道)にも
キリストきょう(あるいはユダヤきょう?)は、つたわっている?
ユダヤきょうのゆうめいな「ちめい」や「かたち」が、ニホンのちめいや「じんじゃ」の「ほんどう」の「かたち」になって、のこっているらしい。
けど、これは、としでんせつだといわれている。
しゅうきょうのなかみ
しゅうきょうのいきさきは、いっしょだ(とおもう)。
「しゅうきょう」の「なまえ」はちがうけど、「なかみ」のたいせつなぶぶんは、どれもよくにているよ。
たとえば、
- 「たにんをたいせつにする」
- 「ものにおぼれない」
- 「ころさない、ぬすまない」
っていう、かんがえが、せかいどこでもある。
そのほかの、たくさんある、ちょっとしたちがいは、おおめにみてあげよう。
ところで、「どれか、1つだけかみさまをおがみなさい」って、いわれたら、だい2じせかいたいせんみたいになってしまうってかいたよね。
じだいはエゴにむかいかねないからね。
エゴのじだい
すでに、そういうじだいになっているんだ。
エゴというと、かんがえかたがたくさんあることをみとめないことだ。
「じばくテロ」とか「ふんそう」「ないせん」「アフガニスタン」「シリア」「みんぞくじょうか」
ニホンだってえらいことになってる
ダイバーシティは「たようせい」っていういみで「ちがいはあるけど、どれもまちがいじゃない」をいみすることばだ。
ジブンがただしいとおもっていると、かならず、せんそうになっちゃうんだ。
それをとめるには、あいてもただしいって、むじょうけんに、みとめないといけない。
みぢかなところで「いじめ」「ぎゃくたい」「じさつ」「リスカ」なんかも、おなじもんだいだ。
たくさんある「かちかん」をむじょうけんでみとめるところから、はなしあいがはじまる。
※ボクは、小学生がいじめにあってたり、家庭でイライラのはけ口になっている子どもたちを守りたいと思っているよ。
かみさまがたくさんいるのはなぜ?
「ほかのひともただしい」ことを、ジンルイがきづくために、なんぜんねんもかかって、たくさんのかみさまができたんだ。
だけど、それなら、「かみさまはいない」というのもちがうとおもうんだよ、うん。