皆さん、こんにちは。
今回は、私の母の話です。なぜだか、母と接していると「強引だな」「図々しいな」と感じてしまうことがあります。
例えば、母は教会で知り合いに自分が読んだ本をよく貸し出します。本を勧めたい気持ちはわかるのですが、渡された側は「また来た…」と感じているんじゃないかと、つい想像してしまいます。きっと、「本を読んでいる暇もないのに、早く返さなきゃいけないし、感想も言わなきゃいけないし…」と、少し負担に思っているのではないかと、勝手に心配してしまうんです(私の考えすぎかもしれませんが)。
また、父が聖体拝領の行列に並ぶときも、後ろから「早く行きなさい!」とばかりに背中を小突きます。父はただ、オルガニストのかたが先に並んでもらうよう、順番を譲っていただけなのに…。
監視する母、イライラする私
特に私がイライラしてしまうのは、食事の時です。母はよく「野菜が少ないから、サラダはしっかり食べなきゃダメよ」と父に注意しながら、じっと食事を監視しています。
微笑ましい光景に見えるかもしれませんが、私には少し違って見えます。以前、恋愛が終わった後の大人の関係について、「お互いを見つめ合うのではなく、外の世界に目標を置いて、一緒に歩んでいくことが喧嘩しないコツだ」と学んだことがありました。
だから、母が父の食事を監視する姿を見ていると、「お互いを見つめ合ってないで、もっと自由に、それぞれ好きなように食事をすればいいのに…」と思ってしまい、どうしてもイライラしてしまうのです。
反省と模索
母ももう84歳。もう少し大らかな気持ちで受け止めないといけないと分かっています。きっと、母なりの愛情表現なのだと思います。イライラしてしまう自分に、反省が必要なのかもしれません。
でも、同時に思うんです。どうすれば、母を否定することなく、「もっと楽に、自由に暮らす方法もあるよ」と伝えられるだろうか、と。
皆さんは、親や身近な人に、似たような「なんだかイラッとする行動」をされて、どうしていますか?そして、どうやってその気持ちを伝えていますか?
ぜひ皆さんのご意見を聞かせてください。
ところで、こんなときは、
私の十字を切るタイミング
私の十字を切るタイミングだったりします。
どうか、そんな事が起こりませんように。そう願うときは十字を切ることにしているからです。
本によると、イエス様をキリスト(救い主)として信じるときに十字のしるしをするそうです(信仰告白)。確かに、ミサの時でも、葬儀の時でも、信仰告白や祈りの最初と終わりなどで十字を切っています(神への感謝や祈り願うときに)。」
十字のしるしというのはもちろん十字架を表していて、イエスが十字架で死んだときの愛と救いのしるしです。
十字を切るだけで、いいというか、十字を切る時間くらいしかないときにはとても便利ですね。ところが、十字を切るだけでも、「今はそれをするときではない(十字を切るときではない)」とか「みんなが見ているからよせば?(十字を切るのは)」みたいな、私を神様から引き離そうとする囁きを聴くことがあります。
みなさまも、そういうささやきにまけないようにしましょう。

